切られお富!

歌舞伎から時事ネタまで、世知辛い世の中に毒を撒き散らす!

6月歌舞伎鑑賞教室「壺坂霊験記」(国立大劇場)

2015-06-18 20:32:26 | かぶき讃(劇評)
忘れないうちに書きます。

文楽ならともかく、歌舞伎の演目としてはやや軽く見られがちな演目の「壺坂」。こういう見方は偏ったものかと思ったら、上演資料集に載った三木竹二(森鴎外の早世した実弟)の劇評の冒頭までそんな書き出しだったので、昔からある意見だったんだなと、改めて納得してしまいましたが…。

ということで、本題ですが、目の見えない夫と幼馴染で美人妻の夫婦の話。疱瘡で容貌も視力も失われた夫・沢市が、毎夜出かける妻・お里の行動を不審に思い、問い詰めます、浮気なんじゃないかと。でも、これは妻が夫の目の治癒を祈願していたんだと聞かされ、沢市は我が身を情けなく思い、自殺を考えます…。といったストーリーで、これはBSドラマ『僕の妻と結婚してください』の夫に通じるものがある心情ですね。

で、わたしの観たことのある舞台は、吉右衛門・芝翫、三津五郎・福助の二種に、文楽では住大夫、文吾、文雀といったベテランのしみじみとした名演が忘れられない。あと、確か浅草で愛之助・七之助コンビの舞台もありましたが、わたしは未見。ただ、芝翫、福助、七之助は成駒屋の同じ型なんでしょうから、演出上の違いはそれほどないんじゃないかと想像します。

さて、今回は片岡秀太郎監修で、この義太夫に縁の深い松嶋屋の型。わたしが気づいた点をとりあえず列挙します。(勘違いもありそうなんで、間違いがあったら指摘していただけるとありがたいです。)

                                   ☆


●お里の登場シーンで、床にあった着物を折りたたむくだり、通常は脱ぎ捨てられた感じの着物をきれいに畳むという体だが、今回はある程度きれいに畳んであった着物をしまうといったイメージ。

●沢市の登場シーンが、お里が上手の部屋の障子を開けるのではなく、お里が鏡を覗いている間に、障子が開き(つまり沢市が自分で開けた体)、自力で上手の部屋から出て、「お里に話がある」と言って座る。(通常だと、お里に手を引かれて、座るパターン。)盲人でも自宅では、この程度のことは人の手を借りないということか。

●夫婦一緒に壺坂寺にお参り行く際、沢市が袴をはく。(按摩は袴をはかないが、座頭ははくものだということらしい。)

●出かけるとき、沢市の杖の先をお里が持つときの思い入れ。通常は玄関先だが、今回は玄関を出てから。花道近く。

●場所が壺坂寺に変わって、お里がいったん家に帰るくだり、通常は帰ろうとして花道七三にかかり、草履の鼻緒が切れる。つまり、不吉な予感という演出。今回は、お里が戻ってくる際(つまり二度目の出)、急いでいたお里の鼻緒が切れるという流れ。「不吉な予感」の演出でなく、「切迫感」の演出。

●お里が壺坂寺に戻ってからのクドキ。通常はお堂の前の振りくらいだが、今回はお堂をぐるりと回り、松や岩、お堂の段を使って動きが多く、なかなか華麗。

●お里が後を追って、崖を飛び下りるくだり。舞台が半回しになって、崖の先が客席向きになる。通常、舞台は回らない。

         
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 ということで、感想ですが、孝太郎のお里は世話女房らしく、甲斐甲斐しさが出ていて悪くない。ただ、初々しさはもう一つか。芝翫だとカントリーガールな感じだったし、福助はいくらなんでもイロっぽ過ぎて年増に見えたことからすると、七之助がどうなったのかはちょっと気になる。ただ、七之助の場合、「野崎村」のお光があまり世話女房っぽくなく、むしろ都会の娘みたいだったことからすると、はまっていたのかは疑問だが…。

 で、孝太郎に話を戻すと、沢市内のきびきびした動き、壺坂寺のくどきの華やかさはよかった一方、亀三郎演じる沢市との間がもっと親密でもよかったのかなと。芝翫のこの役がよかったのは、沢市への心配が手に取るようにわかったことで、心配するところが大ベテランが演じているにも関わらず、どこか子供っぽくて可愛いんですよね。その点でいうと、孝太郎のお里はずっと姉さん女房みたいで大人だから、少し距離感を感じたのかもしれない。もちろん、この役のお里は沢市より三つ下。「三つ違いの兄さんと…。」ですからね。

  一方、亀三郎の沢市は、口跡のいいこの人のニンではない役だけど、神妙な感じ。この役でいつも感じていたのは、吉右衛門にせよ、三津五郎にせよ、少しじじむさく演じているなあ~という印象。本来、沢市は若い人の役なので、亀三郎で悪くないはずなんだけど、役自体が「いじけ虫」なので、口跡のよさがかえって、いじけた印象を消しているように思えた(ハムレットが嘆いているみたいな)。

吉右衛門や三津五郎の場合、老成した沢市にすることで、「人生への諦め」を出しているんだろうけど、若い役者がやるのであれば、別のアプローチが出てきてもよいと思います。目が悪くなくたって、こういういじけた男は今も昔もいるわけで、エヴァンゲリオンをあげるまでもなく、若いいじけ虫で自殺志願者の芝居が出てきたときに、新しいこの芝居が成立するかもしれない。ただ、死を決意するところ、「せめて未来を」の前後は誰が演じてもなかなか難しい感じはします。

他で気になったのは、舞台が半回しになって、お里が崖を飛び下りるくだり。「俊寛」みたいに派手にせり出すわけではないんだけど、崖が前に来る以上、少し装置を造形的絵画的に工夫した方が見栄えが良いですよね。しかも、通常の客席から見えないところに飛び込むパターンと違い、正面近くに来るから、高さがないことがバレバレで、思いつめた後追い自殺の感じが、装置のせいでもうひとつでない。歌舞伎鑑賞教室の予算の問題もあるんでしょうが、松竹の興行のときには一工夫を期待したいですね。

また、観音様の功徳で沢市の目が見えるようになってお里にいう「どなたじゃぞえ」は、わたしも長らく嫌いでしたが(子供のころから一緒にいるのに、妻だとわからないはずがないという理屈。)、台本を読み返すにつけ、ここはシャイな青年が何か言わなければいけないんだけど、何を言えばよいか思いつかず発する言葉だと解釈すれば、案外悪くないのかなと。なので、高齢者観客層を喜ばすためのエンタメした「どなたじゃぞえ」じゃないパターンが出てきたらよいですよね(ちなみに、山城少掾、越路大夫のCDを聞いているうちになんとなくそんな気がした。)。その点でいうと、今回の舞台は屈託のない「どなたじゃぞえ」でした、という感想。

 あと、沢市がこの芝居で歌う場面は、一幕目冒頭と二幕目の最初の花道ですが、今思えば、三津五郎が一番うまかった。こういうのは役者にとっても難しいですね。しかし、惜しい人を亡くしたナ。

 なお、上演記録を見ると、大阪松竹座で我當・秀太郎コンビでやったことがあるんですよね(2003.7)。是非見てみたかったです。わたしは、我當が国立劇場でやった「沼津」の平作とか、坂田藤十郎襲名のときに大阪松竹座でやった「夏祭浪花鑑」の釣船三婦、「近頃河原の立引」の与次郎が好きなんで、さぞやよかっただろうと想像しますが…。

というわけで、長々すいません。感想でした。


PS①:鑑賞教室の亀寿の解説はテキパキしていてよかったです。化粧するところなんか、今さらながら勉強になりましたよ。亀三郎・亀寿兄弟は、三津五郎の死をチャンスに変えてほしいですね。初代辰之助、十代目三津五郎と続いた菊五郎劇団のキレのいい立ち役の芝居の系譜を継いでほしい。口跡が良いし、世代的にもちょうど良いと思うんだけど…。松緑とか菊之助がいるとはいえ。

PS②:盲人を取り上げた落語に「景清」というのがありますが、桂枝雀の音源で、口演中、枝雀が「壺坂」を語っているものがあります。ご参考にどうぞ。

・わたしが以前書いた記事「「景清」って落語のこと。」


PS③:落語ついででいうと、「心眼」という落語では、盲人の夫がじつは美男で、世話女房が醜女だという設定でした。八代目桂文楽の名演が忘れられない。

枝雀落語大全(37)
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NHK落語名人選 八代目 桂文楽 明烏・心眼
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