幼い頃はいつも同じ顏をしていて、表情が読めなかったクルシャ君でしたが
最近はいつも顏を見ているので、飼主には彼の気分くらいは判るようになりました。

人間でも極く稀に、「動物と話ができる」という御仁があります。
そういう御仁についての報告書を読むと、どうも「話なんかしていない」ことが
よく分かります。

気分、欲求、意志くらいのことを正確に読み取る才能のことを「動物と話ができる」
ということらしいので、何も動物の言語を操ったりする能力があるわけではない
のです。彼らには一様に言語が無いからですが、イルカやシャチにはそれらしき
ものがあるかもしれないということなわけです。象や類人猿にもありそうです。

飼主が「話なんかしてない」と断定するのは極論だということになりそうですが、
賢い類人猿の中でも特別賢い研究所の「天才チンパンジー」なんかでも乗り越えられない
壁というものがあります。指示と指示対象の区別ができないのです。試しに猫におもちゃ
を隠しておいてから、あそこにあるよと指だけでおもちゃの場所を示してみてください。
猫はあなたの指しか見ません。指の先に指示された対象が有るとは決して思わない。
シニフィアンとシニフィエの連関という感覚が最初から無いのです。

記号と対象との関係を訓練で一つずつ覚えるのがよく慣れた賢い動物、というわけで
ヒトがどうしても言語で意味を操っているものだから、彼らにも教えようとしたがる
みたいです。ちなみにヒトは乳幼児でも指示と指示対象との連関を理解します。
すると、「動物と話をする人」は言語なんか使ってないわけで、動物の直接的な情動
や態度を細かく見分ける直観が特別優れた能力者、ということになります。動物に
何かを伝える事もできるでしょう。

これで飼主もクルシャ君と話をするにはどうすればいいか、大体分かりますよ。
でも、「動物と話をする人」に共通する決定的な要素が飼主にない。
それは「動物に警戒されないこと」です。頑張って身に付けられることではなくて
いまのところ、極端に少ない天才だけが持っている能力です。もっと動物とのコミュニケーション
研究が進めば、警戒されない方法が分かるかも。黒豹が寄ってきて何かを伝えようとして
くれる、この段階にすぐ達するのが特殊能力者なんで、飼主なら威嚇されておしまいです。

覚悟や勇気の問題でも無いのですよ。怖がっている動物の隣にいられるというのは。
一種の救世主的な素養が必要です。飼主は子供のころ、何度も危険な犬の傍に行って
仲良くしようとして、散々に噛まれた経験から言ってます。こちらの恐怖心に反応して
噛んでくるのだ、と聞いてから平常心でもって近寄ってもそんな有り様です。
あ、今回のテーマです。
今日は、クルシャ君がすっかり服に慣れたので、その様子を撮影しました。

服を着せてみても、むずがったりクルシャ君得意の前転を繰り返してみたり
飼主に「不快です」と訴えたりせずに、ちょっとした違和感を高揚感に変える
ことができるようになりました。
着衣の狙い猫
服を着たまま、きゃふきゃふ。

しかし、やはり身動きし辛いみたいなのですぐに脱がせます。
古代中国ではよく蛮族を形容するのに「冠もつけてない」だとか表現しています。
古代ギリシアだとむしろ裸体はなんだか神々しいものだったりもしますが、着衣が
ヒトの文化の指標であることに変わりはありません。

ちょっと文化的になったクルシャ君に、なんとかしてもっとよくクルシャ君のことを
知りたいと思う飼主がいずれ同じ場所に落着くのが理想です。てんでんに勝手な方向
に向いてるかどうかは、それもまたいずれ分かってくること。
