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写真集「40年前の東京」


発行所 生活情報センター
発行年 2006年
副題 1963-1966 TOKYO/昭和38年から昭和41年 春日昌昭のトウキョウ
写真 春日昌昭(1943~1989)
文  佐藤嘉尚(1943~)

東京オリンピックを境に、東京はすっかり変貌する。
ここにはその前後の東京がある。

白黒のそっけない写真だが、見つめれば思い出が雲のように湧き出して来る。
私にとって懐かしいのは、代々木駅前と新宿南口だ。しばらく思い出にふけろう。

1963年の春、2ヶ月だけ、代々木の予備校に通った。女子寮があると聞いてそこを選んだが、行って分ったことは、以前ここは連込み宿で、廊下の両側にいくつかのドアが並び、ドアを開けると2畳半と3畳の続き部屋がある、そこに2人ずつ入れるという、信じがたい居住条件だったことだ。が、当時は予備校に女子寮があること自体が稀で、不平を言ってもほかに仕方がなく、新潟や高知、和歌山など遠方からの女浪人で満員だった。(幸運にも私は唯一の4畳半に一人で入れた)風呂はあったが、小さいし、毎日入れるわけでもないので、大抵は銭湯を利用していたのだが、銭湯が未経験の私は、厭なのでしぶしぶ週一回位行っていただろうか。
代々木駅前の写真には、今は存在しないその予備校(Y学院)の広告板と、同郷の同級生男子に誘われた喫茶店が写っている!あの日は5月の太陽が熱く照っていたが、こうして見ると寂しい風景だ。

記憶にある文字「Coffee & Music」のほかに「純喫茶」の文字が見える。(純喫茶とはアルコールを出さない喫茶店の意味)入口のガラス戸から覗くとうす暗くて気味がわるく、私は「ここは止めようよ」と尻込みした。高校を出るまで、学校と家の間(徒歩5分)を往復していただけで、そういう場所に出入りしたことがなかったので。結局、隣の縄のれんで、冷麦か何かを食べたと思う。最初のデートがこんな風では、前途も予測できよう。その後、「純喫茶」は歩き疲れたときや、夏の暑さ、冬の寒さから逃れるのに、よく利用したもので、あの暗さは、神経を休めるのに格好だった。その時の二度と返らぬ臆病な自分がほほえましい。でも相手の男性はさぞ歯がゆかったことだろう。いまや明るいサテンやカフェに押されて「純喫茶」は激減して旧時代の遺物になり、ただ好事家にとってのみ興味の対象になっているらしい。

まだ新宿西口の高層ビル群が影も形もないころで、そこはむかし淀橋浄水場だった。
日曜日、代々木から、浄水場跡を横目に新宿まで歩いたこともある。
今では思いつくことも出来ない、散歩コースだ。

都電の角筈(ツノハズ)という行き先を見て思い出した。紀伊国屋書店のある新宿3丁目は、以前は角筈と言った。ある朝、新聞に紀伊国屋出版のボーヴォワール自伝の広告が大きく出ているのを見て、興奮して電話した。「もしもし、キイのクニヤさんでしょうか」初めて見た店の名前をそう読むと思い込んでいたのだ。店員が「はい、キのクニヤでございます」という。大抵の人はあ、違うのかと飲みこんで、そ知らぬ顔で会話を続けるだろうが、「『紀伊の国』と書いて『キの国』と読むのですか」と押して聞いた。もしかして相手の間違いかもと思ったわけではなく、自分が間違ったことを確認して、知識を確実にしたかったのだ。「はい、紀伊の国と書いて、きのくにと読みます」と落着いた口調で答えた。この丁重な応対には今も感心するし、また、自分の性癖は変わらないなあと思う。

寮の近く、小田急線沿いに劇団(か合唱団)の建物があった、(文学座か二期会か)
「岸田今日子を見た、すごくきれいだったよ」というおしゃべりも聞いた。

新宿駅南口の曲がりくねった石段は、映画館に行く通り道。

巻末に載せられた春日昌昭のはにかんだような表情が、魅力的だ。
佐藤嘉尚によると「コーデュロイ」は「コール天」だったし、お風呂は3日に一度くらいしか焚か立てなかったとか…すっかり忘れていた当時の生活が甦り、「ああ、そうだった」と込み上げる懐かしさ、それは、1964年生まれの世代が作った「3丁目の夕日」では決して味わえないものだ。

★予備校時代のエピソード
   →2010-10-7 「フランクリンの母と傘」

★学生時代の貧しい生活
   →2007-5-1 「恋人たちの失われた革命」

★喫茶店今昔
   →2010-5-23 「スタバ風景」
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