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京都の歴史を足元からさぐる

2009年08月02日 | 明治維新以降

 私の愛読書に「京都の歴史を足元からさぐる」 がある。著者は森浩一さん といって現在、82歳の同志社大学名誉教授である。 森浩一さんは実は考古学者で、大学生のときに考古学の必要性を提唱した人物である。 体調が優れず、奥様と一緒に、あるときは奥様に手をひかれながら京都の町を再度歩きながら、「京都の歴史を足元からさぐる」 の本の完成に尽力されています。 今日、楽しみにしていた第4弾、サブタイトルは「嵯峨・嵐山・花園・松尾」の巻きが家に届き、じっくりと拝見させていただこうと読む前からわくわくしている次第です。 だいたい一巻発表するのに1年半くらいかかっていて、このシリーズは第6巻までの構想だそうですから、完成するのにはまだ3年くらいかかるのでしょうか。 森浩一さんの専門は考古学ですから、自然と家には「記紀の考古学」、「日本神話の考古学」 といった難しそうな本が並ぶのですが、「京都の歴史を足元からさぐる」 は森浩一さんの著書の集大成だけあって、難しいことは横においといて、 「だから京都の昔を学ぶのは楽しい・・・」 というサブサブタイトルをつけても違和感のなさそうな本です。 

 さて、第4巻の「嵯峨・嵐山・花園・松尾」の巻きは嵯峨天皇、清和天皇、和気清麻呂、然、明恵、西行、藤原定家、宇都宮頼綱、角倉了以、芭蕉、去来が主に登場してくるようです。 森浩一さん自身も執筆活動を行ううえで、これらの人々の清清しい生き様を再確認できたのは「発見」であり「天からのご褒美」であると、まえがきに書いていらっしゃる。 と同時に文化財として仏像を扱う寺社、保存のために立ち入りを禁ずる寺社、保存・維持のために営利をうかがわせる寺社には落胆をおぼえるとも。 

 次の巻きは「宇治・筒木・南山城の巻き」 のようである。第4巻では思わず力がはいったせいか、急に気が抜けて疲れを感じるようになった・・・と書かれている。そして一息いれてから総集編にとりかかるとも。 ひょっとしたら6巻の予定を5巻に変更するつもりだろうか。 すこし気になった。 さて、また平安時代の京都に触れながらこのブログの軌道修正をしよう。

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京を守る獣神

2007年11月17日 | 明治維新以降

京都を守る獣神と梵鐘

お寺の鐘の音色

 京都にある梵鍾の音色は中国の唐古律という調律方法で、京都御所を中心に調律されていているらしい。 清滝の北にある神護寺の鐘は平調、大徳寺の鐘は盤渉調、知恩院の鐘は下無調、高台寺の鐘は上無調、西本願寺の鐘は壱越調甲という具合である。 この微妙な調律によって、全てのお寺の梵鍾を鳴らしたら、その音は御所に向かってハモルのだという。  大晦日の除夜の鐘はもちろん共鳴するのであるが、その音を是非とも聞いてみたい。 これらの設計はもともと風水によるものであるが、風水は陰陽道からきている。 京都の都の設計で陰陽道からきているものの最も重要なものは四神である。 四神とは北は玄武(足の長い亀に蛇が巻き付いたような獣)、南は朱雀(翼を広げた鳳凰のような獣鳥)、東は青龍(長く舌を出した竜)、西は白虎(細長い体をした白い虎)にわけられた神である。 また、それを象徴するものとして北には高山(舟岡山)、南には沢畔(巨椋池)、東には流水(鴨川)、西には街道(山陰道)がある。 京都は四神といわれるこれらの獣神で守られている。  因みにこれらの獣神はキトラ古墳や高松塚古墳の側壁にも描かれていて、奈良時代から守護神として祭られていたことが窺われる。 

 では何故このような設計が京都の町に隠されているのか。 平安京遷都の歴史を考えてみれば謎は簡単に解けるのである。 平安京遷都を実現したのは桓武天皇である。 当時平城京から長岡京遷都(784年)が行われ財政的に裕福であったわけではない。 わずか十年足らずで794年平安遷都を行った。 これには大きな理由がある。 第49代光仁天皇の嫡子・桓武天皇が即位したのは781年で、皇子である安殿親王がいるにもかかわらず、弟の早良親王を皇太子とした。 天智系により造成された平城京が気に入らなかった天武系の桓武天皇は早速長岡遷都を計画し、その造営の長官に藤原種継を任命した。 ところが種継が長岡京建設現場で暗殺されるのである。 この事件の首謀者は遷都反対派であった大伴家持一族とされ、大伴一族は官位を剥奪されるなど処罰を受けた。事実上の族長・大伴継人は斬られ、そして桓武の弟で皇太子の早良皇子は廃太子されて流罪となった。 大伴一族の反乱は早良親王の了解のもとに行われたという理由からである。 早良廃太子は無罪を叫んで断食を行い、淡路への護送の途中で憤死(785年)し、遺骸は都に帰ることを許されずに流刑地の淡路へ送られている。 

 もともと早良親王は東大寺の僧侶として修行を重ねていたが、桓武天皇即位のときに、光仁天皇は東大寺の勢力を持つ早良親王は政権安泰に有利と見て皇太子とした。 しかし桓武には寵愛する安殿親王がおり、あるころから早良が邪魔になったことは明らかである。 早良親王が憤死すると桓武の身の回りには不幸が相次ぐのである。 788年の藤原旅子妃死亡をかわきりに、母の高野新笠、皇后・藤原乙牟漏、宮中の要人が死亡し、北の蝦夷との戦いに敗れた。 桓武を最も悩ませたのは息子・安殿親王が病弱であったことである。 ここから桓武天皇は早良親王の祟りを恐れ始め、平安京の造営を開始するのである。 そして794年に四神に守られた平安京は完成した。 

  

和気氏(和気清麻呂)に後押しされ、桓武に引き合わされた最澄は遣唐使として密教を学ぶ。このとき同行した青年の中に空海がいた。空海が日本へ戻ったときには桓武は亡くなっていたが、加持祈祷を中心とした呪術的色彩が濃い密教は、まさに平安京を怨霊から守るものとして嵯峨天皇に受け入れら、空海は東寺を与えられる。

平安京が当時は科学であった陰陽道によって設計されていたと主張するのは台湾人の黄永融氏である。 陰陽道の基本は「気」であるが、気が集中する場所を「龍穴」といい、当時の御所・内裏がそれにあたる。 そこは舟岡山と巨椋池を結ぶ線上にある。また、桓武の配下であり平安遷都に貢献した和気清麻呂の墓(神護寺:日の入りの場所)と日の出の場所とされる将軍塚を結ぶ線上にあり、両者の交差点が京都御所にあたる。 緻密に計算された平安京は紛れもなく「怨霊の祟りを防御する」目的の為に建設されたのである。しかも長岡京から見れば、鬼門の方角にである。

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京都にまつわる川の話

2007年10月07日 | 明治維新以降

京都にまつわる川の話

平安時代から続く保津川下り

平安京遷都の前、長岡京遷都のときから都の造営のための膨大な木材の供給を丹波の国・山国に求めたのは桓武天皇であった。 陸路もあったが、なんといっても大量輸送に適しているのは筏である。 桂川が淀川と合流したあたりから保津峡にさしかからまでを大堰川と呼び、保津川、桂川と名称をかえるが、大堰川・保津川の急流は最大の難所の連続であった。 明治の後半には鉄道・トラック輸送が発達したため筏流しはなくなったが、現在高瀬舟の急流下りとして、その伝統は約1200年続いている。

 

保津峡の開削(1606年)を行った角倉了以(すみのくらりょうい)は、京都の町に数多くの開削を行い、運河を作っている。 その代表的なのが高瀬川である。 高瀬川は鴨川の西側、木屋町通に沿って流れていて、巨大な木材を運搬するための鴨川水道が起源である。 これによって豊臣秀吉の方広寺再建が達成された。 現在、木屋町通の二条大橋近くに、船着場の跡があるらしい。「高瀬川一之船入」がそれである。 又同様の運河で、その名を「東高瀬側」「西高瀬側」「古高瀬川」「旧高瀬川」とする運河もある。

 

同じ床なのに「ゆか」と「とこ」

初夏になると鴨川一帯では清涼床での料理を楽しむ風景が日常的である。 床は「ゆか」と言い、決して「とこ」とは言わない。 鴨川の床の歴史は古く、秀吉の桃山時代に遡ると言う。 一方、貴船神社のそばを流れる貴船川での床は「とこ」と言い、川床料理などと言う。 両者ともに趣があって鴨川の床などは舞妓さんの姿などをみると、京都に遊びに来てよかったと痛感する。 

 

鴨川の床(五条大橋付近)          鴨川の床(四条大橋付近) 

 

 

上賀茂神社と下鴨神社

上と下では何故「かも」の字が異なるのか前々から気になっていたが、少しわかってきた。 京都の御所の東を縦断する鴨川は出町柳のところで、賀茂川と高野川にわかれます。 その分岐点にあるのが下鴨神社で、ずっと北西に位置する賀茂川沿いにあるのがのが上賀茂神社である。 では鴨川と賀茂川の違いはどこからきているのか。 色々と調べてみたが不明であった。 京都ならではの風情がなせる技ということにして、川のY字の合流部にかかる橋の名前は加茂大橋という。 昔の京都人は色々な漢字をあてて地名を楽しんだとしか言いようがない。 極めて合理的ではないが、なんだか面白い。

加茂大橋

 

京都には北流する川がある

京都の川は北から南へ流れているのは誰もが知っている。ところが一箇所だけ、逆に流れている川がある。 それは哲学の道沿いに流れる疏水である。 琵琶湖と京都を船で結ぶ運河として疏水は拓かれたが、その疏水分線が蹴上から南禅寺の水道橋を通って哲学の道のほうへと延びたのである。 そしてこの北上する疏水は銀閣寺前から北白川疏水となる。 すなわち疏水は北大路通を越えて松ヶ崎に届いたあと、西南に曲がり、下鴨の下を貫き、紫明通を流れて堀河を終着点とする。 松ヶ崎が北上の端なのは、このあたりの海抜が琵琶湖と同じだからである。 ところで、当時、この疏水大事業の設計を行ったのは疏水開削を卒業論文とした大学出たての青年技師・田辺朔郎という人らしい。 

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舞妓はんにまつわる面白話

2007年10月07日 | 明治維新以降

舞妓はんにまつわる面白話

祗園の舞妓さんが集合する日

祗園白川には「かにかくにの碑」というのがある。 歌人・吉井勇をしのぶ歌碑であるが、かつてここに「大友」という御茶屋があった。 そしてここに、夏目漱石、谷崎潤一郎、横山大観、湯川秀樹といったそうそうたる顔ぶれが集まっていた。 戦時下にあって、「大友」は姿を消し、大友の女将・磯田多佳も66歳で亡くなったという。 そのとき、吉井勇等が発起人となって、かにかくにの碑を建立し、多くの著名人が名を列ねたのである。 吉井勇の命日11月8日には、当時の仲間、女将をしのんで多くの舞妓が献花にやってくるのであるが、今では「かにかくに祭」として祗園の名物行事になっている。ということで、祗園白川の 「かにかくにの碑」を見に行ってまいりました。 今日は2007/10/6 行くのがひとつき早かった・・・。

 

芸者と芸妓

京都では舞妓さんが成人して20歳を超えると、芸妓と呼ぶようになるが芸者とは言わない。 また、江戸では芸妓とは言わない。 昔太鼓持のことを男芸者とか太夫と言って、京都では芸者と呼んでいたため、それと区別するために芸妓と呼ぶようになったとか。

櫛は愛の証

櫛は神が宿るとされた大事なものであった。女性が亡くなると井戸に投げ捨てる習慣は京都でも少し前まであったという。 男性が女性の髪に櫛をさすというのは愛情表現のひとつとされ、女性が櫛を投げ捨てると別れを意味した。 次に「こうがい」(笄と書く)は髪を書き上げる棒状の道具で、烏帽子を被ったときに頭のかゆいところを掻くのに使った。 しかし女性の装身具になったとたんに金銀であしらわれて派手で豪華になっていった。 そしてかんざしが登場し、髪飾りで賑やかなものと移り変わった。 京女の髪の結い方にはしきたりがあって、結婚すると「先笄」(さうこう:髪の上に「橋」という髷のついた髪形に結い、子供を身篭ると「両手」という髪型に結いかえる。 これらの伝統を今に伝えているのが芸舞妓の髪型である。

初めて話を交わした舞妓はんのかんざしは豪華絢爛でした。 髪結いの話も聞かせていただきました。

 

四条大橋を造った芸舞妓はん

京都では、多くの施設が寄付により建てられているらしい。 明治7年に四条大橋の架け替えが行われた。 四条大橋は祗園八坂神社の氏子によって作られた板橋であったが、文明開化とともに、京都で始めての鉄の橋にかわったのである。 この橋材には府内の寺院から寄付された銅製の仏具類があてられたが、さらに工費の半分を担ったのは地元祗園の芸舞妓たちであったという。 やがて明治四十四年に市電が開通するということで、鉄筋コンクリートの橋に架け替えられて、くろがねは姿を消したらしいが、京都の芸舞妓さんには脱帽である。  

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京都の町にまつわる話

2007年10月07日 | 明治維新以降

京都の町にまつわる話

常盤御前が住み、没したという常盤

京福電鉄北野線の太秦の北あたりに常盤駅がある。 この辺一帯は嵯峨天皇の皇子・源常が別荘を置いた地であることから由来すると言われている。 すぐ東には嵯峨天皇が御所とした大覚寺、嵯峨天皇陵、源融の墓があるという清涼寺があり、嵯峨一色である。 また常盤駅の南隣には、常盤御前が晩年に住み、没したといわれる源光寺があり、境内には常盤御前のお墓があるらしい。 ということで源光寺にいってきました。 しかし常磐御前の墓はありませんでした。 ん~~。

 

五条大橋

五条大橋といえば、牛若丸と弁慶がであった場所といわれているが、当時五条大橋は存在しなかった。 この橋、実は1591年に豊臣秀吉が建設を命じたらしく、平安時代には四条と五条の中間あたりにある松原橋が、当時五条松原橋と呼ばれ、清水寺への参道として存在していた。 故に清水橋とも呼ばれていたらしい。 従って、牛若丸と弁慶がであったのは松原橋ということになる。

五条大橋                    松原橋

 

石川五右衛門と南禅寺山門

石川五右衛門は遠州浜松生まれで太閤秀吉の時代に悪名を轟かせた大泥棒である。 「絶景かな、春の眺めは値千金」 と見得をきったのは南禅寺の山門でのことである。 この山門を鴨川のほうへ進むと三条大橋があり、 悪党総勢10人とともに五右衛門親子は三条川原の南で釜ゆでの刑に処された。 この時の様子は山科言継おいう公家の日記に記されている。 五右衛門は三条川原に引かれていく途中で大雲院の高僧・貞安上人に諭されて泣いたと言う。 それが縁で大雲寺(円山公園内)には墓があるらしい。

烏丸通

京都駅から御所の西を通る中央幹線を烏丸通という。 平安京ができたときには既に烏丸小路があり、その東には東洞院通、西には西洞院通がずっとおおきな通としてあった。また烏丸川があったが、秀吉の時代に消え去ったらしい。 つまり烏丸川の中州に発達した通ということで、川原洲際が次第に烏丸になったというのがその名の由来ということらしいのである。

京都市北区の紫

奈良時代から、紫という色は高貴な色として扱われてきた。 その紫に因んだ地名が多くあるのは北区の大徳寺、今宮神社がある近辺である。 紫野をはじめとして紫竹、紫明に関する町名が90ほどあるらしく、 大徳寺は紫野寺と称され、今宮神社は紫野社と呼ばれていたらしい。 また、紫式部も紫の色が好みだったとみえ、藤式部から紫式部に名前を変えたという話もある。 ところで紫式部の墓が堀河北大路のすぐ南にあるが、これは後年になって紫の町に因んで誰かが墓碑をつくったものだろうか。 紫式部の生い立ちのなかで紫野、紫竹が登場したという記憶はないのであるが・・・。 ということで、現地へいってみた。 大変立派な墓碑がありました。 紫式部も大変喜んでいるでしょう。

 

右京区と左京区は左右反対

朱雀門から羅城門までの朱雀通を中心に右京と左京に二分されたのは平安京造営のときである。その左右は天皇からみて、と言うのが基本である。 故に観光客が手にする地図を見た場合、左右逆になってしまう。 造営当時、右京は長安を手本としたので長安城と呼ばれ、左京は洛陽城と呼ばれた。 その後人は東のほうへ移り、左京が発展していったため、洛陽が京都の代名詞となる。 京都へ行くことを上洛などといったのである。 鎌倉時代に入ると上京、下京という区分が出来るが、この境目は二条通である。

飛行機の滑走路になった二条城の東の大通り・堀河通

第二次世界大戦で敗戦国になった日本はGHQにより占拠されたが、もちろん京都も例外ではない。米軍家族も含めた宿泊施設に京都御所が選ばれたが、流石にこれだけは反対陳情が受け入れられたらしい。 その頃、連絡用小型飛行機の滑走路にあてられたのが南北に走る堀河通である。

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殿と姫

2007年09月24日 | 明治維新以降

少し前から我が家で暴れている殿と姫です。 ただ今5ヶ月のトイプードル。 

 

姫はいわゆるプードルカットをしてみました。 前と比べると益々姫らしく・・・。

 

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京都といえば・・・

2007年07月14日 | 明治維新以降

京都といえば・・・

 黒田正子著「京都の意外」「京都の不思議」に載っていた色々話を紹介してみようと思う。このような事を思い出しながら京都の町を散策すると、面白みが倍増することは「間違いない」。

鐘馗さん

 屋根瓦の一部にみられる鬼瓦は睨みを利かせて厄除けをするのであるが、京都では鬼瓦の変わりに「鐘馗さん」といわれる瓦を厄除けに使っている。唐の玄宗の時代、鐘馗という人が魔を追い払い病を治したという故事からきているらしい。 町家の屋根瓦の上にある瓦人形は、姿や形は様々で、二~三十センチ程の高さで、右手に太刀を持ち、前方をにらみつけています。 屋根の上に「鐘馗さん」を置くようになったのは、 むかしむかし三条のあたりに薬屋さんが大きな家を建てたそうです。 その屋根に大きな鬼瓦を置いたところ、その瓦を見た向かいの家に住む娘さんが、その鬼に睨まれているような気がして毎晩うなされ、ついには病気になって寝込んでしまったそうです。 心配した両親はあれこれ手を尽くしましたが一向に良くならないため、向かいの薬屋さんに鬼瓦を取り外してくれるようにお願いしましたが、大金を払って苦心して取り付けた鬼瓦だから外せないといわれたそうです。 そこで鬼に勝つものは何かと考え、「鐘馗さん」ならということで「鐘馗さん」の形をした瓦を瓦屋さんに作らせたのだそうです。

京都出身の数学者

 保津川・大堰川の開削で知られる角倉家とは一族の関係にある吉田光由(1598-1672)という数学者が、「塵劫記」という当時のベストセラーの実用数学書を書いた。 角倉了以の子・素庵が土木工事には数学の知識が必要とし、吉田光由を助けたらしい。 京都の水道工事の多くは、彼の研究の成果であるという。 吉田家の墓は嵯峨の常寂光寺(小倉山の麓にあって藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる)にある。

数学の話

 現代では数学嫌いという人が多いが、江戸時代は吉田光由の数学書「塵劫記」がベストセラーになるくらい数学好きだったらしい。数学が解けた喜びを「算額」という絵馬に託して神社に奉納した風習が数多くあった。 そのうちに問題だけを書いた算額、解答を記した算額が現れて、日本の数学は各地でレベルを上げていった。 因みに現存する日本最古の算額(1686年)は北野天満宮の絵馬所にあるらしい。 

公衆便所の先進は京都

 お地蔵さんの横には辻便所が備えられ、公衆便所の起源とされるらしい。明治初期には約700箇所の辻便所があったが、衛生上も問題から建物としての公衆便所に変化し、現在では約350箇所になった。京都最古の便所はというと円山公園内にある。

そろばんブームは京都が発祥地

それは川原町二条に始まった。近くに高瀬舟が発着する「一の舟入」があり周辺には角倉家の巨大倉庫が立ち並んでいた。角倉一族は当時数学者をハントしていて、そろばんの達人・毛利重能をそろばん道場の師範とし、「二条京極珠算道場」を拓いた。 吉田光由・今村知商・高原吉種は俗に「毛利の三子」と呼ばれた高弟である。

寄付で建てた京都美術館

 開館74年を迎える京都美術館は全国二番目の公立美術館(最初は東京美術館)で、昭和天皇の即位式を記念すべく建てられることとなった。 その費用は104万円(現在のお金で約100億円)だそうで、そのすべてが寄付によってまかなわれたという。 京都の文化を我が手で残そうとする思いやりが窺われる。 そしてデザインは2600の応募のなかから30代の若き青年のものが採用された。

寄付で建てた円山音楽堂

 その昔、京都の円山公園といえば、野外音楽堂が思い浮かんだほどフォークやロックのコンサートが催されたが、今ではここを横目に高台寺にいたる「ねねの道」を皆が通り過ぎていく。 この音楽堂は京都美術館の6年前に、当時の市町さんなど3人の寄付で造られたらしく、今で80年を迎えることになる。

京の雑煮は白味噌

 我が家の雑煮は関西なのに何故かすましに、かしわ、蒲鉾、ほうれん草、そして焦げ目のついたお餅である。 関西ではすましは少なく、白味噌にたくさんの具がはいって、ねっとり、どろっとした感じの雑煮が多い。(近畿二府四県、福井、徳島、香川) 因みに 「京都の意外」の著者黒田正子さんは愛媛の出身で、すましだそうです。 ところで京都といえば薄味で有名なのに雑煮だけは濃厚な白味噌仕立を譲らないのである。 で、その理由は雑煮は京都人にとって料理ではなく御菓子であると。

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京都にまつわる面白話

2007年06月06日 | 明治維新以降

京都にまつわる面白話

黒田正子著「京都の意外」で始めて知った色々話を紹介してみようと思う。このような事を思い出しながら京都の町を散策すると、面白みが倍増することは「間違いない」。

雅楽

雅楽はもともと神仏に捧げる音楽であり、人が聞いて楽しむものではない。今でこそ、篳篥、笙といった楽器が馴染みになってきたが明治以前は寺院でしか演奏はされず、とても面白いものではなかったそうな。 雅楽が人を楽しませるために変化していくために、神仏に対して正当な雅楽を演奏することが今後は難しくなるのかも。 清水寺の舞台は御仏に向かって演奏する雅楽の舞台である。

 

鴨脚さん

 鴨脚とかいて「いちょう」と読む。鴨の足が銀杏の葉によく似ているところからきているらしい。 下鴨神社社家の鴨脚さんはいかにも京都人らしい名前である。

たぬきときつね

 大阪ではきつねはうどん、たぬきはそばである。が、京都では「あんかけ」のことを「たぬき」という。 従ってたぬきうどん、たぬきそばの両方がある。

辻占せんべい

京都には、中からおみくじが出てくるせんべいがある。小麦粉、砂糖、白味噌、煎り胡麻のみで作る辻占せんべいがそれである。

京都の銭湯

石川県出身者の経営者が70%らしい。雪の多い北陸からの出稼ぎ者が京都に銭湯を開業し、郷里の血縁者を呼び寄せたのが原因らしい。 銭湯といえば、たいてい暖簾に「湯」と書いている。 「風呂」と書いているのはあまり見かけない。 浴槽に湯を張って全身の疲れを癒すのが「湯」であり、「風呂」というと今のサウナの意味であったらしい。 風呂やの暖簾に「湯」とある理由が頷ける。

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空母エンタープライズ

2006年03月21日 | 明治維新以降

空母エンタープライズとグラマンF3F-1

 昭和20年8月に日本が降伏すると、アメリカ占領軍は日本に上陸し、9月にアメリカ最強の戦艦「ミズーリ号」にて降伏文書調印式が行われた。 このミズーリ号は昭和19年(1944年)1月29日に進水式を迎えた。 同年の昭和19年に就役した後、第二次世界大戦中は主に太平洋を中心に活動し、昭和19年12月24日にパールハーバーに寄港し昭和20年空母レキシントン率いる艦隊に加わり、同年2月19日に硫黄島上陸作戦に参加している。また3月には沖縄上陸作戦に海上から艦砲射撃を行う。 尚、4月11日、初めて特攻隊戦闘機(1機)の攻撃を受けた。

 空母エンタープライズは、この調印式の7年前に、米空母ヨークタウン級の2番艦として1938年誕生した。 開戦時はミッドウェ-島にいて2日後、日本潜水艦『伊-70』を撃沈している。 42年の6月のミッドウェー海戦では日本の主力空母の全滅に大きく貢献した。 しかし8月24日の第二次ソロモン沖海戦で中破し、南太平洋海戦でも再び中破している。 それでも11月に再び戦線に復帰し、第三次ソロモン沖海戦で日本の輸送船団を爆撃した。 その後もマリアナ沖海戦など主要な海戦はほとんど出撃し日本海軍を消耗させていった。 大戦末期は沖縄戦を援護したが2度の

特攻機による突入で損傷し修理中に終戦を迎えた。 この空母エンタープライズに搭載されていた艦上戦闘機がグラマンF3F-1である。

グラマンF3F-1

空母エンタープライズ搭載のVF6所属機
主翼上面のシェブロンは第3小隊
カウリングと機体帯は隊長機

製作:クロウ

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マッカーサー元帥

2006年03月21日 | 明治維新以降

マッカーサー元帥

 戦後の日本を占領した連合国軍の最高司令官であり、総司令部を統括した人物である。 ダグラス・マッカーサーは1880年にアメリカアーカンソー州でうまれる。 父・アーサーも陸軍軍人である。 やがてウエストポイント陸軍士官学校を主席で卒業すると1905年に来日している。 第一次世界大戦1914-1918年、が始まるとレインボー師団の創設し、参謀長として指揮した。 1919年に39歳で陸軍士官学校の校長となり、45歳で少尉、50歳で陸軍参謀総長となっている。 55歳のとき、フィリピン独立の気運が高まるとフィリピン国軍創設の軍事顧問になり、フィリピン憲法の草案作成に参画した。 軍事顧問退役後、1941年61歳の時に、日本との戦争機運が高まると極東アメリカ軍事司令官となりフィリピンに駐在する。

 そして間もなく太平洋戦争が始まることになる。1941年の12月のことである。 日本軍の猛攻撃を受けたマッカーサーはコレヒドール島(フィリピン・マニラ湾に位置する小さな島)からミンナダオ島をを経てオーストラリアへ脱出する。 が、やがて戦況がアメリカ有利に傾くと、反撃に出た。

 太平洋艦隊司令長官・ニミッツ海軍大将の「飛び石進行」により、硫黄島を占領する。 またマッカーサーはオーストラリアから北上し、ニューギニア島を占領し、フィリピン・レイテ島からフィリピン全土を奪回し沖縄・台湾を経由して日本上陸計画を立て、実施した。  昭和20年8月に日本が降伏すると、アメリカ占領軍は日本に上陸し、9月にアメリカ最強の戦艦「ミズーリ号」にて降伏文書調印式が行われた。

ミズーリ号 全長270m高さ64m

  その直後の朝鮮戦争では、マッカーサー元帥は窮地にたたされ、全面戦争を主張するが、当時のトルーマンアメリカ大統領は、朝鮮に物資補給をしていた中国との直接対決を嫌い、マッカーサーは1951年に解任される。 「老兵は消え去るのみ」の名言を残して引退すると、1964年に84歳でなくなった。

 マッカーサー元帥は、「日本十二歳論」を提唱し、日本をアメリカ的民主主義国家にすることを夢見た。

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大久保利通

2006年03月19日 | 明治維新以降

官僚制度を確立にた大久保利通

 1830年天保の改革元年 薩摩藩士の子に生まれる。

 1857年安政の大獄 (大老井伊直弼は、幕府に反対するものを捕らえて処刑しました。) のころ、西郷隆盛とともに徒目付となり、 1859年薩摩藩主の元祖 島津久光に接近し 勘定方小頭となる。 1862年江戸にいき、2年後薩摩藩政改革を行い、薩摩は討幕派になっていく。

 1869年参議、1871年大蔵卿となり 岩倉具視とともに遣外使節団の全権副使となる。 1873年明治6年に帰国したときには征韓論が、もちあがていた。 西郷隆盛 江藤新平 板垣退助などがそれである。 が、それよりも国内整備が大事であると主張し 板垣退助を説得する。 そして産業振興政策を打ち出す。 これは1年半の海外遠征で得たものであるが、産業振興・文明開化を基盤に最新の軍艦・大砲を手に入れ外国に武力で劣らない国にすることが目的であった。

 当時イギリス、イタリア、ドイツでも日本と同様に動乱期であったが、中でもイギリスは自由主義経済の先駆者であり、ドイツはビスマルクを指導者として先進工業国イギリスを見習い、効率的な近代化を行おうとしていた。 効率的な近代化のノウハウを熟知していたのはエリート官僚である。 こうして官僚主義を基本としていたドイツの政策を大久保利通は取り入れようとした。 

 後に1885年明治18年内務大臣となり官僚制度を作った。 近代化には不可欠であった供給者育成機関と消費者保護機関・内務省などを創設したのである。

 その頃西郷隆盛は身分制度にこだわった士族制度を推進するのだから、時代遅れといわざるを得ない。 官僚制度が確立したのは1877年西南戦争により西郷隆盛が破れたころである。 その後木戸孝光が病死、大久保利通の独り舞台が始まろうとしたとき、暗殺されるが、その後伊藤博文、山県明朋があとを受け継ぎ、ますます強固なものになっていく。

 官僚制度を担う人材育成の為に 帝国大学を設立すると、1897年明治30年には京都に帝国大学を作り、最高官僚意識を造っていく。

 しかし、官僚制度の弱点がその後露呈することになる。 横の連携が欠如し、 指導者がいなくなると各省庁を統率できなくなり一部の官僚の独走が起こるというものである。 第一次世界大戦時のドイツは世界各国と対立するし、太平洋戦争時の日本も軍事官僚の独走から全世界を敵に回した。

 今なお、官僚制度の是非が問われている。エリート意識を持ちすぎた外務省はその代表である。 外務省職員がモロッコで泥酔運転の末、現地の人を殺す事件があったが、本人は一ヶ月の処分のみで外交官として何もなかったように職務についている。外務をつかさどる者が外国で反感を持たれるのは致命的であると思うが・・・。

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光源氏的総理大臣

2006年03月18日 | 明治維新以降

光源氏的総理大臣と東条英機

 光源氏と東条英機といえば縁もゆかりもないようであるが、大きな関係があると言ったのは堺屋太一である。 1998年7月より2000年12月まで経済企画庁長官を務め、現在は内閣特別顧問をしているのですが、この人の本とてもユニークで、実は愛読しております。 そして今回のタイトルの所見を述べられていたので、ちと紹介したいと思います。

 光源氏といえば、もちろん紫式部の源氏物語に登場する優雅で、気品のある主人公です。 のちに太政大臣になり六条院に大邸宅を築くと多くの女性を一緒に住まわせ、准太上天皇(総理大臣の中でも大物の人)に上り詰めます。 ところが、光源氏が政治に関わって偉業を成し遂げたとうようなことは、源氏物語にまったくでてきません。 ただただ美意識の中に生き、政治家としては全く無能であるにも関わらず、憎むきにはなれない人徳があります。 

 この光源氏のように、なにもしなかった政治家が太平洋戦争前に現れます。 そのひとの名は近衛文麿という貴族出身の総理大臣です。

 さまざまな政策は提唱するものの内容は空虚で、政治の実際は軍人と官僚が行っていたにもかかわらず、国民からの非難はなく、総理に3回なっています。 総理一回目のときは、日中戦争を泥沼化させ政権を放り出します。 昭和15年の第二次内閣のときは、全議員が彼の傘下にはいるが指導力はなく、政治は陸軍軍人と官僚に任せっきりで、日・独・伊三国同盟を結ぶ。 しかしながら国民の支持を受けて、昭和16年の第三次内閣のときは、日米開戦は反対だといいながら戦争原因を作っていった。 そして結局、昭和16年内閣総辞職をし、東条英機陸軍大将(第三次内閣のときの陸軍大臣で戦争の推奨派)にあとを継がせるのである。 

 そして、太平洋戦争に突入し、220万人の犠牲者をだすことになるのである。 敗戦後は、開戦の全責任を軍部に転嫁し、1945年にGHQからの逮捕命令を聞き、東京裁判でA級戦犯者として裁かれることを知り、青酸カリを飲んで自殺している。 

考えてみれば、 近衛文麿の責任は極めて大きく、その死に方も無責任としかいいようがない。 政治的には無能ではあるが世に支持され続けたところが、光源氏に似ていると堺屋太一は述べており、少し興味深く読んでしまいました。

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奇子(あやこ)

2006年03月12日 | 明治維新以降

手塚治虫 作「奇子」

陰陽座 瞬火 作「奇子」

 下山事件は、「戦後史最大の謎」と言われています。 1949年に、時の国鉄総裁・下山定則(しもやま さだのり)が、出勤途中に公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま失踪し、15時間後に轢死体となって発見された事件です。当時、自殺説、他殺説が入り乱れ、GHQによる謀殺説もささやかれましたが、真相は今も明らかになっていません。

 「奇子(あやこ)」とは、その下山事件をモチーフとし、1945年、日本の敗戦とともに大きく移り変わっていく時代の中で、崩壊していく旧家の一族の姿を描いた社会派ドラマです。 

   東北の大地主・天外(てんげ)家の末娘・奇子は、家長・作右衛門が、長男市朗の嫁・すえに生ませた不義の子でした。  一方、戦地から復員してきた次男の仁朗は、GHQ(連合国軍総司令部)の命令で、郷里淀山の左翼政党支部長の謀殺に関わります。   ところが犯行後、仁朗が血のついたシャツを洗っているところを、奇子とお涼に目撃され、仁朗はお涼を殺してしまいました。   市朗は、身内から犯罪者を出して天外家の家名が汚れるのを恐れて、仁朗を逃がし、幼い奇子を、永久に土蔵の中に閉じ込めておくことを決めました。  やがて月日は流れ、奇子は、土蔵の中で美しい大人の娘に成長していました。  そして道路建設のために土蔵が壊されることになり、奇子は20年ぶりに外の世界を見ることになったのです。  しかし、純粋な少女の心のままに成長した奇子の目に映った外の世界は、醜く恐ろしい欲望の渦巻く世界でした。

 くろうが先日購入した陰陽座のDVDに「奇子」という曲が挿入されています。手塚治虫の「奇子」をテーマにした曲です。 幼くして地下に閉じ込められた少女の23年の長きに渡る思いを詠ったものです。

 今この曲を聴きながら、まさに平安時代の多くの女性達が艶やかな憂いの中に散っていったのが偲ばれるのです。

鮮やかな暗闇に独り 嗤い尽る白い徒花

幾重もの秘め事に揉まれ 生まれ出たことも消されて

愛を知ることもない間に 姶を白肌に湛えて

闇を出ることも叶わず 閉ざされた時の涅から

咲いても花に成れぬ悲劇の野草 その身を晒すことは月への戯笑

裂いても離れ得ぬは て惑い 闇に融け堕ちていく涅槃まで

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靖国神社

2006年02月19日 | 明治維新以降

「靖国神社」に祀られている人達

 そこに祭られているのは「戊辰戦争」「佐賀の乱」「西南戦争」「日清戦争1894-」「日露戦争1904-」「満州事変1928年-」「支那事変」、そして「大東亜戦争」(真珠湾攻撃で端を発し、原爆投下により敗戦した太平洋戦争のことであるが、靖国では大東亜戦争と言っている)までの約250万人の戦没者たちである。そのうち大東亜戦争での犠牲者は約215万人と圧倒的に多い。

 靖国神社による「戦犯」の合祀は、政府が、それを「公務死」と認定した事を根拠としています。色々と理由をつけてA級戦犯を受けた東条英機のような人約28人も国内法では公務死となっているのです。 負けるとわかっていながら、神の国と思い込ませ多くの若者を戦地にやり犬死をさた東条英機のような人と、その命令をうけて片道切符で敵船・敵機に突っ込んでいった若者が同じ「公務死」として扱われています。 

 極東軍事裁判所で行われた東京裁判でのA,B,C級戦争犯罪者に対する審判と、国内法による審判「公務死」とおおきな開きがあります。因みに、A級:侵略戦争を遂行した「平和に対する罪」で軍部最高司令官等にくだされました。 これに対してB級は戦争法規・慣例に違反したもの、C級は民間人に対する迫害を実行した「人道に対する罪」をいい、あわせて約1000人が処刑されています。 しかし国内法では大変寛容で、恩給・遺族年金もきっちりでています。 会社で言えば、労務災害扱いです。

 今、小泉首相の靖国参拝で物議をかもしています。 個人的には参拝しても大いに結構です。くろうが参拝しても誰も文句を言う人はいないように。 しかし首相という立場である以上、個人的な参拝であるという主張はおかしいように感じます。くろうが大好きな1000年前の平安時代から代表の行動はもはや個人の行動では説明できない大きな力が必然的に働くということはわかっていました。聖徳太子はそれを強く唱えた人でもあります。

 A級戦犯者が靖国に祭られることへの不満を、ある遺族が語ったものを紹介します。

 『私の夫も赤紙一枚で中国大陸へ駆り出されて戦死し、自動的に靖国神社にまつられましたが、A級戦犯も合祀されたと聞いた時、私は一緒にまつられたくない思いで日本遺族会を脱会しました。あえて言えば、私たちの親、夫、子は、針路を誤った指導者の犠牲となり、しかも、近隣諸国への加害者になってしまっているのです。 大多数の戦没者は、道を誤った指導者のために南の海に消え、島で餓死したといいます。私は、戦争を指導した人たちと同じ場所に夫の名前を連ねたくない。夫の霊は、故郷の山河と遺族に囲まれて安らかに眠るのが一番なのです。』

 靖国参拝賛成派の人が記したコラムを以下に紹介します。 

 「英霊に対し、国政の最高責任者たる総理が参拝することに何の躊躇いがあろうか」「『戦没者に敬意と感謝を表するのは日本人として当然のこと』 20010702日『朝日新聞』夕刊より

 これに対して、くろう個人的には「英霊」以外は賛成である。靖国に祀られているのは英霊であるということに基づくのだと思うが、東条英機が英雄だろうか。戦地の捕虜を使って人体実験を行い、バイオ兵器の研究を指揮した人は英雄だろうか。

 18歳で、神風特攻隊として命を失った若者は間違いなく英雄である。アメリカの戦艦隊員はむなしくも突撃してきた若き日本兵士の亡骸に手を合わせ尊んだほどなのであるから。 

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人物日本史

2006年02月19日 | 明治維新以降

サイコロジー人物日本史―小田晋の精神歴史学  小田 晋 (著)

 今日この3冊を読み終えたのですが、大変面白く日本史を観察できました。 著者の小田 晋というかたの専門は社会精神病理学・犯罪学・民族精神医学といって、つまりは精神分野の医学博士である。 高校の教科書に記載しているような日本史の見かたではなく、「どのような精神構造で、あの人は、ああいうことをしたのだろう・・」 という具合に観察している。 例えば徳川家康は「鳴かぬなら、鳴くまで待とう・・・」といわれたように、・・・と解説が始まる。 ところが実は神経質で、ケチで、・・・爪をかむ癖があり、小さい頃には愛情の欲求不満があった・・。 という感じである。 家康の場合、源頼朝と同じく小さいことから捕虜として、監視の目の中で育っているから、当たり前のようにも思うが、ケチにまつわる逸話なども交えて解説している。

 最近の、くろうのブログのなかでは藤原道長と紫式部の接点については、小田さんの本から引用させていただきました。  「紫式部は、一条天皇の妃・彰子に仕えながら、道長との関係はかなり濃かった。 道長は、源氏物語の執筆を楽しみにし、催促しては、紫式部を誘ったりもしている。 関係があったかどうかは定かではないが、空蝉は、紫式部自身を投影した登場人物なのではないかとも、いわれている。」 という調子である。 ちょっと奥を覗いて見たら確かにそうだろうなぁ・・と、思えるような感があるのです。 まことに面白い本でありました。

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