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京都にまつわる川の話

2007年10月07日 | 明治維新以降

京都にまつわる川の話

平安時代から続く保津川下り

平安京遷都の前、長岡京遷都のときから都の造営のための膨大な木材の供給を丹波の国・山国に求めたのは桓武天皇であった。 陸路もあったが、なんといっても大量輸送に適しているのは筏である。 桂川が淀川と合流したあたりから保津峡にさしかからまでを大堰川と呼び、保津川、桂川と名称をかえるが、大堰川・保津川の急流は最大の難所の連続であった。 明治の後半には鉄道・トラック輸送が発達したため筏流しはなくなったが、現在高瀬舟の急流下りとして、その伝統は約1200年続いている。

 

保津峡の開削(1606年)を行った角倉了以(すみのくらりょうい)は、京都の町に数多くの開削を行い、運河を作っている。 その代表的なのが高瀬川である。 高瀬川は鴨川の西側、木屋町通に沿って流れていて、巨大な木材を運搬するための鴨川水道が起源である。 これによって豊臣秀吉の方広寺再建が達成された。 現在、木屋町通の二条大橋近くに、船着場の跡があるらしい。「高瀬川一之船入」がそれである。 又同様の運河で、その名を「東高瀬側」「西高瀬側」「古高瀬川」「旧高瀬川」とする運河もある。

 

同じ床なのに「ゆか」と「とこ」

初夏になると鴨川一帯では清涼床での料理を楽しむ風景が日常的である。 床は「ゆか」と言い、決して「とこ」とは言わない。 鴨川の床の歴史は古く、秀吉の桃山時代に遡ると言う。 一方、貴船神社のそばを流れる貴船川での床は「とこ」と言い、川床料理などと言う。 両者ともに趣があって鴨川の床などは舞妓さんの姿などをみると、京都に遊びに来てよかったと痛感する。 

 

鴨川の床(五条大橋付近)          鴨川の床(四条大橋付近) 

 

 

上賀茂神社と下鴨神社

上と下では何故「かも」の字が異なるのか前々から気になっていたが、少しわかってきた。 京都の御所の東を縦断する鴨川は出町柳のところで、賀茂川と高野川にわかれます。 その分岐点にあるのが下鴨神社で、ずっと北西に位置する賀茂川沿いにあるのがのが上賀茂神社である。 では鴨川と賀茂川の違いはどこからきているのか。 色々と調べてみたが不明であった。 京都ならではの風情がなせる技ということにして、川のY字の合流部にかかる橋の名前は加茂大橋という。 昔の京都人は色々な漢字をあてて地名を楽しんだとしか言いようがない。 極めて合理的ではないが、なんだか面白い。

加茂大橋

 

京都には北流する川がある

京都の川は北から南へ流れているのは誰もが知っている。ところが一箇所だけ、逆に流れている川がある。 それは哲学の道沿いに流れる疏水である。 琵琶湖と京都を船で結ぶ運河として疏水は拓かれたが、その疏水分線が蹴上から南禅寺の水道橋を通って哲学の道のほうへと延びたのである。 そしてこの北上する疏水は銀閣寺前から北白川疏水となる。 すなわち疏水は北大路通を越えて松ヶ崎に届いたあと、西南に曲がり、下鴨の下を貫き、紫明通を流れて堀河を終着点とする。 松ヶ崎が北上の端なのは、このあたりの海抜が琵琶湖と同じだからである。 ところで、当時、この疏水大事業の設計を行ったのは疏水開削を卒業論文とした大学出たての青年技師・田辺朔郎という人らしい。 

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