マッカーサー元帥
戦後の日本を占領した連合国軍の最高司令官であり、総司令部を統括した人物である。 ダグラス・マッカーサーは1880年にアメリカアーカンソー州でうまれる。 父・アーサーも陸軍軍人である。 やがてウエストポイント陸軍士官学校を主席で卒業すると1905年に来日している。 第一次世界大戦1914-1918年、が始まるとレインボー師団の創設し、参謀長として指揮した。 1919年に39歳で陸軍士官学校の校長となり、45歳で少尉、50歳で陸軍参謀総長となっている。 55歳のとき、フィリピン独立の気運が高まるとフィリピン国軍創設の軍事顧問になり、フィリピン憲法の草案作成に参画した。 軍事顧問退役後、1941年61歳の時に、日本との戦争機運が高まると極東アメリカ軍事司令官となりフィリピンに駐在する。
そして間もなく太平洋戦争が始まることになる。1941年の12月のことである。 日本軍の猛攻撃を受けたマッカーサーはコレヒドール島(フィリピン・マニラ湾に位置する小さな島)からミンナダオ島をを経てオーストラリアへ脱出する。 が、やがて戦況がアメリカ有利に傾くと、反撃に出た。
太平洋艦隊司令長官・ニミッツ海軍大将の「飛び石進行」により、硫黄島を占領する。 またマッカーサーはオーストラリアから北上し、ニューギニア島を占領し、フィリピン・レイテ島からフィリピン全土を奪回し沖縄・台湾を経由して日本上陸計画を立て、実施した。 昭和20年8月に日本が降伏すると、アメリカ占領軍は日本に上陸し、9月にアメリカ最強の戦艦「ミズーリ号」にて降伏文書調印式が行われた。
ミズーリ号 全長270m高さ64m
その直後の朝鮮戦争では、マッカーサー元帥は窮地にたたされ、全面戦争を主張するが、当時のトルーマンアメリカ大統領は、朝鮮に物資補給をしていた中国との直接対決を嫌い、マッカーサーは1951年に解任される。 「老兵は消え去るのみ」の名言を残して引退すると、1964年に84歳でなくなった。
マッカーサー元帥は、「日本十二歳論」を提唱し、日本をアメリカ的民主主義国家にすることを夢見た。