京都の町にまつわる話
常盤御前が住み、没したという常盤
京福電鉄北野線の太秦の北あたりに常盤駅がある。 この辺一帯は嵯峨天皇の皇子・源常が別荘を置いた地であることから由来すると言われている。 すぐ東には嵯峨天皇が御所とした大覚寺、嵯峨天皇陵、源融の墓があるという清涼寺があり、嵯峨一色である。 また常盤駅の南隣には、常盤御前が晩年に住み、没したといわれる源光寺があり、境内には常盤御前のお墓があるらしい。 ということで源光寺にいってきました。 しかし常磐御前の墓はありませんでした。 ん~~。
五条大橋
五条大橋といえば、牛若丸と弁慶がであった場所といわれているが、当時五条大橋は存在しなかった。 この橋、実は1591年に豊臣秀吉が建設を命じたらしく、平安時代には四条と五条の中間あたりにある松原橋が、当時五条松原橋と呼ばれ、清水寺への参道として存在していた。 故に清水橋とも呼ばれていたらしい。 従って、牛若丸と弁慶がであったのは松原橋ということになる。
五条大橋 松原橋
石川五右衛門と南禅寺山門
石川五右衛門は遠州浜松生まれで太閤秀吉の時代に悪名を轟かせた大泥棒である。 「絶景かな、春の眺めは値千金」 と見得をきったのは南禅寺の山門でのことである。 この山門を鴨川のほうへ進むと三条大橋があり、 悪党総勢10人とともに五右衛門親子は三条川原の南で釜ゆでの刑に処された。 この時の様子は山科言継おいう公家の日記に記されている。 五右衛門は三条川原に引かれていく途中で大雲院の高僧・貞安上人に諭されて泣いたと言う。 それが縁で大雲寺(円山公園内)には墓があるらしい。
烏丸通
京都駅から御所の西を通る中央幹線を烏丸通という。 平安京ができたときには既に烏丸小路があり、その東には東洞院通、西には西洞院通がずっとおおきな通としてあった。また烏丸川があったが、秀吉の時代に消え去ったらしい。 つまり烏丸川の中州に発達した通ということで、川原洲際が次第に烏丸になったというのがその名の由来ということらしいのである。
京都市北区の紫
奈良時代から、紫という色は高貴な色として扱われてきた。 その紫に因んだ地名が多くあるのは北区の大徳寺、今宮神社がある近辺である。 紫野をはじめとして紫竹、紫明に関する町名が90ほどあるらしく、 大徳寺は紫野寺と称され、今宮神社は紫野社と呼ばれていたらしい。 また、紫式部も紫の色が好みだったとみえ、藤式部から紫式部に名前を変えたという話もある。 ところで紫式部の墓が堀河北大路のすぐ南にあるが、これは後年になって紫の町に因んで誰かが墓碑をつくったものだろうか。 紫式部の生い立ちのなかで紫野、紫竹が登場したという記憶はないのであるが・・・。 ということで、現地へいってみた。 大変立派な墓碑がありました。 紫式部も大変喜んでいるでしょう。
右京区と左京区は左右反対
朱雀門から羅城門までの朱雀通を中心に右京と左京に二分されたのは平安京造営のときである。その左右は天皇からみて、と言うのが基本である。 故に観光客が手にする地図を見た場合、左右逆になってしまう。 造営当時、右京は長安を手本としたので長安城と呼ばれ、左京は洛陽城と呼ばれた。 その後人は東のほうへ移り、左京が発展していったため、洛陽が京都の代名詞となる。 京都へ行くことを上洛などといったのである。 鎌倉時代に入ると上京、下京という区分が出来るが、この境目は二条通である。
飛行機の滑走路になった二条城の東の大通り・堀河通
第二次世界大戦で敗戦国になった日本はGHQにより占拠されたが、もちろん京都も例外ではない。米軍家族も含めた宿泊施設に京都御所が選ばれたが、流石にこれだけは反対陳情が受け入れられたらしい。 その頃、連絡用小型飛行機の滑走路にあてられたのが南北に走る堀河通である。