平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

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新春の御挨拶

2019年01月01日 | 明治維新以降

2019年も宜しくお願い致します。

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正月休みの勉強会-4 お年玉

2015年01月13日 | 明治維新以降

 皆さんはお正月に親にお年玉をあげますか?もらいますか?毎日やっているTV番組(司会の小倉智昭があまたつ~~と言っているトクダネ)で話題にしていた。子供じゃないんだから・・・、いい年をして親からいまだにもらってるってどうなの?ってな話である。還暦を過ぎた親から、息子家族へのお年玉が年頭の行事になっている家庭があった。両親がうれしそうな顔をして孫だけではなく、息子・嫁にもお年玉をあげている風景はなんとも和やかでほほえましい。一方、気が引けるから・・・今年は断ろうと夫婦で相談したもののその場になると受け取ってしまって、うしろめたい顔をしている夫婦。たまりかねた息子の嫁さんがきりだした。そうするとおばあさんが悲しくなったのか涙を浮かべ・・おじいさんもバツ悪そうにしている。その雰囲気がなんともはや・・・なのである。なんの遠慮もなく当たり前のように受け取るのは別として、前者も後者もありではないかと思う。前者も後者も、老夫婦は息子家族にしてあげたいのである。重要なのはどのように親孝行をするかであり、どのように受け取るかである。おそらく両方とも別の機会で親にプレゼントをするだろうし、老後はちゃんと面倒を見るだろう。つまり、いずれのばあいも「もちつもたれつ」の関係が成立しているように見えたから、涙がなくても微笑ましいし、涙があっても微笑ましい。

 これがお年玉ではなくて、財産分与となるとどうだろうか。財産がほとんどない場合には微笑ましい光景となるが、そうでない場合は難しい。兄妹であっても夫婦であっても揉めるのが世の常。もっと大きな社会となると血みどろの戦いとなったりする。司会の小倉智昭さんは、お年玉を受け取る大人が増えていることを批判していたが、そのお金でいずれ両親に旅行のプレゼントなどをしているのだろうから、それもOKですよねというコメントがあっても良かったな、というお話でした。

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正月休みの勉強会-3 自灯明

2015年01月12日 | 明治維新以降

 勾玉がふれあうときの玉響という心地よい音は、どうすれば聴けるのか、人はどう生きればいいのかについて今まで間接的に歴史の事象を通じて述べてきたが、私は「平家物語」にその答えが凝縮されていると思っている。それをより具体的に伝承しようとしたのが法然であり親鸞である(少し違うだろ?という意見もあろうかと思いますがご容赦)。平家物語については、古くは小泉八雲が、そして吉川英治や吉村昭が書いた。先日お亡くなりになった宮尾登美子も平家物語を書いている。当ブログではカテゴリーとして区分しているように、私は平家物語が好きである。この物語の中には人生・栄枯盛衰・宇宙の真理が結集されているから、江戸時代から今までずっとベストセラーなのである。平家物語の冒頭 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」は誰もが知るところであるが、これは、「人は愚かであり、儒教や道教が教えるバランスというものを自ら破壊する。しかしそれもまた森羅万象」 と言っているのである。そしてそれは太古の時代から全世界での歴史が物語っているとも言える。かといって諦めるのではなく、平家物語では「奢るな」と言う。法然も親鸞も多くの弟子たちに伝えたが、お釈迦さんも入滅前に弟子に伝えている。

 つまり、「他人の言うことを拠り所とするのではなく自らを拠り所とし修行せよ、さすれば立派な修行者となるに違いない」と。この教えを「自灯明・法灯明」とも「自帰依・法帰依」とも言う。尊敬する人の言葉でさえ鵜呑みにするのは良くない、すべて自分で決めよということになる。現代では陽明学者の安岡正篤氏は、天下国家をあれこれ論じるよりもまずは自分がいる場所を明るく照らせる人間になれと言う。「一燈照隅・萬燈遍照」である。ここまでを学問として考えようとするのが「朱子学」である。それに対して陽明学では、考えたことを実行することにこそ意味があると説いている。私が不思議に思うのは、この安岡正篤氏の教えに傾倒した人々(実践派)は、結果的には不遇の死を遂げていることにある。弟子の陸軍大将・山下泰文大将はマレーの虎と呼ばれるように太平洋戦争で敗戦後、1946年マニラで絞首刑に処せられた。「金閣寺」で知られる三島由紀夫は、防衛省本省で東部方面総監を監禁後、1975年割腹自殺を遂げて果てた。幕末の志士であり、天才・武市瑞山によって結成された土佐勤王党のメンバー約200人(坂本龍馬もそのひとり)はほとんどが死んだ。きっと他人に帰依せず、一燈照隅を実践した人々が結果的には自殺、斬首、切腹になっている歴史を振り返るとき、物事の真理がわからなくなるのである。しかしこれもまた森羅万象なのである。

 幕末の多くの志士たちは命を落としたが、全国各地で、教科書で、いたる場面で彼らは英雄として語られている。これが生前・死後を通してバランスされているとしたら、それはそれで陰陽道が目に見えないところで機能をしているのかもしれない。

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正月休みの勉強会-2 陽明学

2015年01月11日 | 明治維新以降

 万葉の時代に限らず、いつの時代においても人間は「玉響」という音の響きにあこがれてきた。わかりやすい言い方をすると、世の中の安定や個人の健康をずっと祈りながら生活をしてきたのである。何故あこがれたかというと、陰と陽がバランスすることが古代から難しいことだったからであり、日々の生活の中で心安らかになれることは少なかったから・・・是非とも健康でありたいと人々は願ったからであると私は考える。そして歴史を振り返ると世の中が不安定(陰陽のバランスが崩れた状態)であるときに、陰陽道・儒教は流行する。実は平安でもなんでもなかった平安時代に流行り、結構平穏であった江戸時代においてさえも政治不和と儒学の発展はリンクし、動乱の時期・幕末には一気に儒学が花開いたし、太平洋大戦時代にも儒学は流行った。

 平安時代は既に述べたように、元号が平安だからといって決して平安であったわけではない。奈良時代に天災・病気が万延し、民だけではなく皇族・公卿も苦しんだことから、世の安寧を願って桓武天皇による平安時代が始まった。しかし皇族だけが贅沢をするという構図、貧富の差は全く変わらない。自分の政治に後ろめたさを感じ、祟りを恐れた上流階級は少しでも禍が降りかからないようにと占いに頼り、陰陽師がもてはやされた。かくして安倍晴明を頂点とする安倍氏によって陰陽道は隆盛を極めることとなる。江戸時代には大塩平八郎という与力・陽明学者が大塩平八郎の乱を起こして幕府に抗議をした。また幕末には、「徳川が薦めた朱子学などは勉強するだけであって何の意味もない・・・実行することに価値がある」 という思想が世を動かした。これが儒学の中の陽明学である。有名な実行派には吉田松陰がいるが、第一人者は高山彦九郎である。京都三条大橋東詰に巨大な像があり、天皇がいる御所に向かってひれ伏している尊王攘夷派である。また、第一次世界大戦後の不安定時代に現れたのが、安岡正篤という陽明学者(儒学者)である。彼の考え方に傾倒した青年将校が2.26事件を起こしたし、吉田茂や佐藤栄作といった政治家にも多くの影響を与え、安岡正篤(政治家ではなく陽明学者)は政界の黒幕と言われた。太平洋戦争終結時に大東亜省顧問の立場にあり、「大東亜戦争終結ノ詔書」をレビューして完成させた人物であり、玉音放送で流された内容も監修した。ここで「玉音放送」「玉砕」で使われる「玉」の意味であるが、その根本を私は「勾玉」だと思っている。つまり「敗戦」とか「全滅」といった究極のアンバランスが生じたときに天皇は「玉=勾玉」を使って心の均衡を願ったものと考えている。玉音放送を聴いた一般庶民は悲しんだが、何をしたかというと、焼け野原で野球をしピアノをひいたのである。これは、心の均衡が保たれた故の行動とも言える。

 このように陰陽道や儒学がはやった時代背景は、挙げればいくらでもある。(今まで数多くの背景・異変を既に当ブログで詳述した) ここで興味深いところは、道教・儒教・陽明学 (幕末の志士達や大本営軍部に見られる流血を伴う実行主義) の象徴が陰陽魚、太極図というところである。つまり根本的考え方「過激:思想家は過激とは思っていない」 とは全く相反する勾玉を象徴とすることでバランス・安らぎを得ようとしているように考える。そしてこれは古代(西暦180年頃の卑弥呼の時代よりも前)から現在まで2600年に渡って人々が願ってきたことなのである。現代では自殺者が年間に3万人を超えており、死者数を見れば極めて大きな異変なのである。すると全国各地で人間学講座が花盛りとなる。では自殺者やうつ症状が減っているのか?というと全く逆で増えている。マクロ的に見ればバランスをとるための講座がかえってバランスを悪くしているという結果になっているところが皮肉である。では人はどう生きればいいのかについて次回記載したいと思う。

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正月休みの勉強会-1 玉響

2015年01月10日 | 明治維新以降

 九連休の正月休みが終わろうとする日の2015/1/4にある人と勉強会を行った。その御仁は「喫茶店でお茶飲んだだけ・・」と思っているかもしれないが、会えばまず間違いなく3時間くらいは話すので私にとっては勉強会なのである。したがってコーヒーの後、紅茶なども頼まないとお店に申し訳ない。毎回会話に出てくるのはある人のブログである。7年ほど前に、最初に見た時は、たまたま内容に通じるところがなかったせいか、ピンとこなかった。しかし今久しぶりに見てみると構成に変化もあり、当日の記事の内容もあり、私のブログとの共通性を感じた。共通性は陰陽。つまり陰と陽が相まってこの世は成り立ち、すべての精神はバランスするという部分である。そのブログでは陰陽・バランスを保つために人はどのように行動したらよいか・・・という切り口の記載が多く、個人の日常生活にあてはめやすい。一方私のブログでは歴史的な史実を紹介することで陰陽のバランスとの関係性を見ている。

 その昔平安時代には陰陽師が隆盛を極めた。その代表が安倍晴明であり、朝廷における最高官僚になっていった。平安時代に隆盛を極めたと記載したがそれは表面上であって、実は平安時代をずっと遡ること数百年(不確か)も前の古代から陰陽は重要視されている。その証拠が「勾玉」(澄んだ川底から採れる翡翠などを加工して作ったオタマジャクシ型の石)である。因みに日本書紀では勾玉、古事記では曲玉として記載されている。陰勾玉と陽勾玉を点対称に並べたら、下のような真円になる。この勾玉は古代から装飾品として使われたことが出土品からわかっている。この図形のことを陰陽魚といい、儒学に取り入れられたことは、すでに当ブログで紹介した。例のブログでは、道教に取り入れられた太極図と記載があったが、それも正しい。

 当ブログのサブタイトルにもしているが、陰と陽の勾玉はバランスしたとき玉響を発する。玉響と書いて「たまゆら」と読み、「ほんのすこし」とか「勾玉が触れ合ったときの心地よい音」を意味する。万葉集には「玉響」が数多くでてくる。つまり、人は昔から陰と陽の象徴である勾玉がバランスよく噛み合って、その結果玉響という何とも言えない心地よい音・響きにあこがれたのである。逆に言えば万葉の時代には、「玉響」という音の響きが聞けるような状態ではなかったといえる。次回は、何故多くの人々が玉響にあこがれたのか、について記載する。

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花火大会その2

2014年08月04日 | 明治維新以降

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2014/08/03 地元の花火大会

2014年08月03日 | 明治維新以降

本日は地元の花火大会ですが、雨・・・でも決行です

自宅の玄関から充分に見えるという楽チンさ

ということで玄関先にカメラをセットして屋根やら植木をシルエットに撮影

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Wedding at Loyal Oak Hotel Spa & Gardens

2014年04月13日 | 明治維新以降

かわいいお嬢さんでした Congratulations

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刀子・粟田口源義平

2013年09月15日 | 明治維新以降

粟田口源義平と刻まれた刀子

 粟田口とは京都市東山区、三条白川橋から蹴上に至る間の粟田郷のことをいい、古来より京都七口のうちの重要な一つで東海道から京都への入口である。京都の粟田口には古くから刀の名工がいた。その祖・粟田口国家の次男・粟田口久国は鎌倉時代の刀工で、兄弟に国友、国清、国吉、有国、国綱(1163年?-1255)がおり、粟田口六兄弟と呼ばれていた。彼らの子または弟子などの色々な説を持つ刀工に粟田口吉光がいる。通称を藤四郎といい、鎌倉の岡崎正宗とならぶ名工とされている。天下五剣、日本三作などで著名なだけではなく、古剣書では左近、または左近充とされて珍重されてきたため、 織田信長、豊臣秀吉といった、時の権力者の元に蒐集され、本能寺の変、大阪夏の陣で焼け身になったものが多数あります。徳川家康は大阪夏の陣に際し、焼け身や行方不明になった吉光や正宗などの豊臣家ゆかりの名刀を探させ、これら焼身の名刀は後に初代越前康継の手によって焼き直され、その姿を今に残すものが多数あるという。

 実はこの刀子、私の大先輩である知り合い宅に久しぶりに遊びに行ったときに見せていただいたもので、思わず粟田口を頼りに調べてみた。刀子と言えば、7年ほど前の正倉院展で展示された聖武天皇愛用の刀子が話題になった。その細工の見事さに比べれば極めて素朴なものであるが、もしも本物であれば相当な値打ちものということになる。 

 吉光の作品は、足利将軍家の御物や名物になったものも多く、戦国の世を経て徳川の時代になると享保名物帳なる書物が編纂され、「平野藤四郎」を筆頭に、健全なもの十六振り、焼け身の部に前述の一期一振を筆頭に十八振り、追記が四振り、計三十八振りを掲載している。享保名物帳の成り立ちは、江戸幕府八代将軍吉宗が武備奨励の一施作として享保四年、本阿弥光忠に古今東西の名刀調査を命じたことによる。本阿弥家には「留帳(関東大震災のおり消失)」という折紙発行の記録台帳があり、他にも「本阿弥空中斎秘伝書」、「本阿弥光心押形」、「光徳刀絵図」など、先祖の残した押形本など多数の資料が残されていたので、その中から健全なもの百六十八振り、消失したもの八十振り、合計二百四十八振りを選出し、各作品に由来等を書き添えて同年十一月に幕府に提出した。本阿弥家の独断で編纂されたものであることから、記載漏れの名刀もかなりあるという。幕末に「鑑刀規範」を著した本阿弥長根は、この名物帳に所載されている刀剣類の由来伝承などを更に詳しく記述し、併せて自己の見聞した事項なども加えて補完した。現在資料として使用されているものは、この時のものである。

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京都祇園祭で33番目の鉾復活

2012年07月09日 | 明治維新以降

 京都・祇園祭のハイライトといえば毎年7月16日の山鉾巡行であるが、祇園祭そのものは7月最初からすでに始まっている。平安時代、貞観地震で東北地方が津波に襲われた869年 (醍醐天皇が延喜の治をふるった901年からは、30年ほど遡る。藤原基経が陸奥出羽按察使を兼任し、大納言となった頃でもある。 )に災疫退散を願って御霊会が行われたのであるが、実は祇園祭りはこの御霊会が起源とされている。 御霊会が行われたのは白拍子の舞が行われたことで有名な神泉苑である。 当時全国には66の国があったことから、66本の鉾をたてて諸国の悪霊を封じ込め、3基の神輿には薬師如来の化身・牛頭天王を祀り、970年頃からは毎年行われるようになった。 現在ではその鉾は32に減ってしまったが、今年の祇園祭では33の鉾が登場する。1864年の禁門の変で焼失した大船鉾が最後尾で仮復帰するという。最前列の長刀鉾だけではなく、最後尾も注目である。

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陰陽座・絶界の鬼子母神

2012年04月21日 | 明治維新以降

 陰陽座のコンサート 「絶界の鬼子母神」 行ってまいりました。いつもとは少し趣向が変わって、今回はオールスタンディングではなく大坂NHKホールでの全席指定というゆったりしたコンサート。 7:00の開演は一気にMC無しで8:00まで「組曲・絶界の鬼子母神」。そして15分の休憩を挟んで二部は過去のナンバーから約2時間という長丁場でした。指定なのだから座れるのですが、3時間まったく座らずに、陰陽座の世界に酔いしれました。歴史感溢れる内容と、ツインボーカル、ツインギターの迫力に圧倒されっぱなしのひと時でした。このコンサートではファンの衣装も楽しめます。それは狩衣姿や巫女姿ですから、気合をいれて写真を撮らせていただきたいところですが、そこまでの勇気はありません。 

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2012年直木賞に選ばれた葉室麟さん

2012年01月19日 | 明治維新以降

 2012年直木賞に選ばれた葉室麟さんは歴史小説、時代小説作家である。 今回の受賞「蜩ノ記」は切腹することを命じられた郡奉行・戸田秋谷が残された日々を大切に過ごす武士としての凛とした姿と、周囲の人間のやりきれなさを描いた作品だという。 森鴎外の高瀬舟をふと思い出しました。 ところで、葉室という姓に興味を持ってしまい、調べてみると、藤原高藤の末裔で藤原為房の次男・顕隆が祖で、顕隆は白河法皇の信任厚く、院政期を代表する公家であった。 既にこのブログで以下のように紹介していたのをすっかり忘れていた。伊勢平氏が北面の武士として表舞台に現れた頃の人物で、平家物語の序章の頃の人物である。 葉室麟さんがその末裔かどうかは知りません。

 伊勢に本拠地を置いた平維衡を祖として伊勢平氏は登場する。平維衡は一条天皇時代に代表する在京武士であったが、平致頼との合戦などで在京武士としては生き残れなかった。 伊勢平氏の本流は正度マサノリに移るがあまり功績は残っていない。また、その子・正衡も含めて源氏の英雄である頼義、義家の景に隠れて表にはあまりでてきていない。 やがて平正衡の嫡男・正盛は白河院の恩寵を受けて北面武士になると伊勢平氏は表舞台に登場することとなる。 1092年正盛が郎党として仕えていた加賀守・藤原為房が阿波国に配流となった。翌年赦免されて帰京すると、信任を得た正盛は隠岐守に任ぜられている。1098年には受領功過定に合格して若狭守となり、これを契機に白河院の恩寵を受けるとともに、受領を重ねて巨万の富を得ることとなる。 そして院の御幸や寵姫・祗園女御への堂提供などでさらに院の歓心を引いている。正盛の嫡子・忠盛も白河院に北面の武士として仕え、18歳で従五位下に叙されている。 1129年の白河院葬儀では種々の役目を担当して、鳥羽院からも寵愛され鳥羽院北面となり、1148年には執事別当となっている。 こうして白河北院造営などの成功により切れることなく受領を歴任しさらに富を増やした。 忠盛の出世を妬んだ殿上人が豊明節会で闇討ちを計画した話は平家物語の序盤でもでてくる有名な場面である。

                     藤原為房1049-1115(白河上皇に重用)
為平親王娘       尊子1003-1087(道長五女) ┣為隆1070-1130(万里小路家祖)
 ┣隆姫女王995-1087 ┣俊房1035-1121   ┣顕隆1072-1129(葉室家祖) 
 ┣次女  ┃    ┣顕房1037-1094   ┃┗徳大寺実能1096-1157━公能1115-1167
 ┣師房  ┃    ┃  ┣藤原賢子   ┣妹(堀河・鳥羽の乳母)
 ┃    ┃    ┃源隆子     源頼国娘   
 ┣嫥子女王┃    ┣麗子1040-1114        
 ┃    ┃    ┃        
具平親王    ┣源師房1008-1077(養子)                  篤子内親王1060-1114
964-1009  ┣源嫄子1016-1039(養子敦康親王娘)     藤原賢子1057-1084 ┣-
       ┃     ┣祐子内親王1038-1105 藤原茂子(公成娘)   ┣73堀河天皇1079-1107
       ┃藤原彰子┣禖子内親王1039-1096  ┣篤子内親王1060-1114┣媞子内親王1076-1096
       ┃┣69後朱雀1009-1045       ┣
72 白河天皇1053-1129
       ┃┣68後一条┃  ┣71後三条1034-1073 ┃藤原顕季アキスエ母(白川乳母)
       ┃┃      ┃  ┣良子内親王1030-1077┃┣長実1075-1133
           ┃┃      ┃  ┣娟子内親王1032-1103┃┃ ┃
      ┃66一条天皇┃禎子内親王(陽明門院1013-)┃┃ ┣得子1117-1160(美福門院)
            ┃  980-1011┃   光子(堀河鳥羽の乳母)┃┃源方子1066-  ┃
道長966-1028┃     ┣70後冷泉1025-┣三条実行 ┃┣家保1080-1136┃
 ┣頼通992-1074   藤原嬉子┃    ┣西園寺通季┃┣顕輔1090-1155┣76近衛天皇1139-1155
 ┃      ┃ ┣通房1025-1044  ┃    ┣徳大寺実能┃藤原経平娘     ┃    
 ┃      ┃ ┃         ┃    ┃ ┗公能 ┃          ┃ 
  ┃   ┃源憲定・娘┏━━━┛    ┣璋子1101-1145(待賢門院)    ┃   藤原顕輔娘
  ┃   ┣覚円   ┣ x     実季┳公実  ┣75崇徳帝1119-1164     ┃    ┣近衛通子1163-?(高倉帝妃) 
 ┃   ┣寛子 1036-1127平等院奥院┗苡子 ┣77後白河1127-1192   ┃      ┃忠隆娘
 ┃   ┣師実 1042-1101京極殿       ┗┓┃ ┏━━━━━━━━━┛平盛子 ┃┣基通1160-1233 
 ┃   ┣家綱-1092 ┣師通モロミチ1062-1099 ┃┃  ┃        源信子┣-  ┃┃ 
 ┃   ┣忠綱-1084 ┣賢子 ┃     74鳥羽上皇1103-1156    ┣近衛基実1143-1166  
  ┃   ┃     麗子  ┣忠実1078-1162  ┣-           ┃源俊子  
  ┃  ┏藤原祇子     ┏全子  ┃  ┣泰子1095-1155(高陽院) ┃┣近衛基房1145-1231 
  ┃頼成(隆姫義弟)  俊家1014-1082 ┃隆子┣忠通1097-1163 (法性寺関白)
  ┣教通996-1075           ┃ ┣源師子1070-1149     ┣九条兼実1149-1207 
倫子 ┃   ┃┣ x                 ┃ ┣藤原賢子1057-1084     ┣九条兼房1153-1217 
     ┃   ┃嫥子女王1005-伊勢斎宮 ┃源顕房1037-1094       ┣慈円    1155-1225    
子内親王 ┃                      ┃                          加賀局(藤原仲光娘)
 1003-1048 ┃                      ┣頼長1120-1156(内覧 保元の乱で敗)
三条天皇皇女┣信家1018-1061   盛実娘
         ┣通基1021-1041        
        ┣信長1022-1094(九条太政大臣)          
         ┣生子1014-1068(後朱雀女御)        
   頼忠   ┣歓子1021-1102(後冷泉皇后)        
    ┣公任┣真子(後冷泉女御)        
 厳子女王┣娘   
     昭平親王娘

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絶界の鬼子母神

2012年01月12日 | 明治維新以降

「陰陽座」待望のアルバムVol.10は「鬼子母神」

雑司ヶ谷の鬼子母神に代表される江戸三大鬼子母神は安産の神様 母子を鬼から護る神

平安時代から一般的な信仰としてあり、母子だけではなく信者の守護神として崇められていた

早速CDをアマゾンで購入し 全国ツアーに参戦の申し込みをしたのは去年

本日、先行受付第一希望チケットの当選連絡があり 春のコンサートが楽しみです

4/20 大阪NHKホールでのコンサートは全席指定 なんばハッチとは違ってひさしぶりに 落ち着いて興奮できます

書道家・武田双雲による鬼子母神の筆

 妻子を戦火で失った浪人・九鬼十蔵は、家族を救えなかった己を悔い、傷心したままの旅の途中で、人里から隔離された場所に迷いこむ。愛する我が子を病で亡くした女・静は、死んだ者を生き返らせるという邪法を用いて子供を蘇生しようと企てる。とある事件に巻き込まれ、妻子を嬲り殺しにされた男・茂吉は、その復習の炎を胸に燻らせたまま、一人の少女と共に山奥に潜む・・・・。幾人もの人間の思念と所業が、互いに引き寄せ合うかのように絡み合い、幾重もの情と相まって一つの結果を導き出す。その果てにあるのは・・・。 という内容のアルバム鬼子母神は12曲の物語で構成された組曲となっています。

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あけまして おめでとう ございます

2012年01月01日 | 明治維新以降

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御礼

2009年12月31日 | 明治維新以降

今年も多くの方々に当ブログを見て頂き感謝申し上げます。平安時代の陰陽と題して始めた当ブログ、1年も続けば・・・との想いでしたが、いつの間にか5年目に突入し、お題も2000を超えました。 日本の歴史を再確認する目的で色々な史跡のある場所に出かけ、歴史だけではなく写真にも手を出し、つたないひとこまを紹介してきました。 今年の大河ドラマは「龍馬伝」ということで、先日京都の寺町通、木屋町通を散策して幕末の志士の史跡めぐりをしてきましたので紹介していきたいと思います。 そして写真という意味では難しいといわれる「ポートレイトセミナー」に参加し、歴史ブログで紹介する風景撮影に役立てたいと思案中です。最後に我が家の御節を。

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