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大久保利通

2006年03月19日 | 明治維新以降

官僚制度を確立にた大久保利通

 1830年天保の改革元年 薩摩藩士の子に生まれる。

 1857年安政の大獄 (大老井伊直弼は、幕府に反対するものを捕らえて処刑しました。) のころ、西郷隆盛とともに徒目付となり、 1859年薩摩藩主の元祖 島津久光に接近し 勘定方小頭となる。 1862年江戸にいき、2年後薩摩藩政改革を行い、薩摩は討幕派になっていく。

 1869年参議、1871年大蔵卿となり 岩倉具視とともに遣外使節団の全権副使となる。 1873年明治6年に帰国したときには征韓論が、もちあがていた。 西郷隆盛 江藤新平 板垣退助などがそれである。 が、それよりも国内整備が大事であると主張し 板垣退助を説得する。 そして産業振興政策を打ち出す。 これは1年半の海外遠征で得たものであるが、産業振興・文明開化を基盤に最新の軍艦・大砲を手に入れ外国に武力で劣らない国にすることが目的であった。

 当時イギリス、イタリア、ドイツでも日本と同様に動乱期であったが、中でもイギリスは自由主義経済の先駆者であり、ドイツはビスマルクを指導者として先進工業国イギリスを見習い、効率的な近代化を行おうとしていた。 効率的な近代化のノウハウを熟知していたのはエリート官僚である。 こうして官僚主義を基本としていたドイツの政策を大久保利通は取り入れようとした。 

 後に1885年明治18年内務大臣となり官僚制度を作った。 近代化には不可欠であった供給者育成機関と消費者保護機関・内務省などを創設したのである。

 その頃西郷隆盛は身分制度にこだわった士族制度を推進するのだから、時代遅れといわざるを得ない。 官僚制度が確立したのは1877年西南戦争により西郷隆盛が破れたころである。 その後木戸孝光が病死、大久保利通の独り舞台が始まろうとしたとき、暗殺されるが、その後伊藤博文、山県明朋があとを受け継ぎ、ますます強固なものになっていく。

 官僚制度を担う人材育成の為に 帝国大学を設立すると、1897年明治30年には京都に帝国大学を作り、最高官僚意識を造っていく。

 しかし、官僚制度の弱点がその後露呈することになる。 横の連携が欠如し、 指導者がいなくなると各省庁を統率できなくなり一部の官僚の独走が起こるというものである。 第一次世界大戦時のドイツは世界各国と対立するし、太平洋戦争時の日本も軍事官僚の独走から全世界を敵に回した。

 今なお、官僚制度の是非が問われている。エリート意識を持ちすぎた外務省はその代表である。 外務省職員がモロッコで泥酔運転の末、現地の人を殺す事件があったが、本人は一ヶ月の処分のみで外交官として何もなかったように職務についている。外務をつかさどる者が外国で反感を持たれるのは致命的であると思うが・・・。

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