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京を守る獣神

2007年11月17日 | 明治維新以降

京都を守る獣神と梵鐘

お寺の鐘の音色

 京都にある梵鍾の音色は中国の唐古律という調律方法で、京都御所を中心に調律されていているらしい。 清滝の北にある神護寺の鐘は平調、大徳寺の鐘は盤渉調、知恩院の鐘は下無調、高台寺の鐘は上無調、西本願寺の鐘は壱越調甲という具合である。 この微妙な調律によって、全てのお寺の梵鍾を鳴らしたら、その音は御所に向かってハモルのだという。  大晦日の除夜の鐘はもちろん共鳴するのであるが、その音を是非とも聞いてみたい。 これらの設計はもともと風水によるものであるが、風水は陰陽道からきている。 京都の都の設計で陰陽道からきているものの最も重要なものは四神である。 四神とは北は玄武(足の長い亀に蛇が巻き付いたような獣)、南は朱雀(翼を広げた鳳凰のような獣鳥)、東は青龍(長く舌を出した竜)、西は白虎(細長い体をした白い虎)にわけられた神である。 また、それを象徴するものとして北には高山(舟岡山)、南には沢畔(巨椋池)、東には流水(鴨川)、西には街道(山陰道)がある。 京都は四神といわれるこれらの獣神で守られている。  因みにこれらの獣神はキトラ古墳や高松塚古墳の側壁にも描かれていて、奈良時代から守護神として祭られていたことが窺われる。 

 では何故このような設計が京都の町に隠されているのか。 平安京遷都の歴史を考えてみれば謎は簡単に解けるのである。 平安京遷都を実現したのは桓武天皇である。 当時平城京から長岡京遷都(784年)が行われ財政的に裕福であったわけではない。 わずか十年足らずで794年平安遷都を行った。 これには大きな理由がある。 第49代光仁天皇の嫡子・桓武天皇が即位したのは781年で、皇子である安殿親王がいるにもかかわらず、弟の早良親王を皇太子とした。 天智系により造成された平城京が気に入らなかった天武系の桓武天皇は早速長岡遷都を計画し、その造営の長官に藤原種継を任命した。 ところが種継が長岡京建設現場で暗殺されるのである。 この事件の首謀者は遷都反対派であった大伴家持一族とされ、大伴一族は官位を剥奪されるなど処罰を受けた。事実上の族長・大伴継人は斬られ、そして桓武の弟で皇太子の早良皇子は廃太子されて流罪となった。 大伴一族の反乱は早良親王の了解のもとに行われたという理由からである。 早良廃太子は無罪を叫んで断食を行い、淡路への護送の途中で憤死(785年)し、遺骸は都に帰ることを許されずに流刑地の淡路へ送られている。 

 もともと早良親王は東大寺の僧侶として修行を重ねていたが、桓武天皇即位のときに、光仁天皇は東大寺の勢力を持つ早良親王は政権安泰に有利と見て皇太子とした。 しかし桓武には寵愛する安殿親王がおり、あるころから早良が邪魔になったことは明らかである。 早良親王が憤死すると桓武の身の回りには不幸が相次ぐのである。 788年の藤原旅子妃死亡をかわきりに、母の高野新笠、皇后・藤原乙牟漏、宮中の要人が死亡し、北の蝦夷との戦いに敗れた。 桓武を最も悩ませたのは息子・安殿親王が病弱であったことである。 ここから桓武天皇は早良親王の祟りを恐れ始め、平安京の造営を開始するのである。 そして794年に四神に守られた平安京は完成した。 

  

和気氏(和気清麻呂)に後押しされ、桓武に引き合わされた最澄は遣唐使として密教を学ぶ。このとき同行した青年の中に空海がいた。空海が日本へ戻ったときには桓武は亡くなっていたが、加持祈祷を中心とした呪術的色彩が濃い密教は、まさに平安京を怨霊から守るものとして嵯峨天皇に受け入れら、空海は東寺を与えられる。

平安京が当時は科学であった陰陽道によって設計されていたと主張するのは台湾人の黄永融氏である。 陰陽道の基本は「気」であるが、気が集中する場所を「龍穴」といい、当時の御所・内裏がそれにあたる。 そこは舟岡山と巨椋池を結ぶ線上にある。また、桓武の配下であり平安遷都に貢献した和気清麻呂の墓(神護寺:日の入りの場所)と日の出の場所とされる将軍塚を結ぶ線上にあり、両者の交差点が京都御所にあたる。 緻密に計算された平安京は紛れもなく「怨霊の祟りを防御する」目的の為に建設されたのである。しかも長岡京から見れば、鬼門の方角にである。

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