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舞妓はんにまつわる面白話

2007年10月07日 | 明治維新以降

舞妓はんにまつわる面白話

祗園の舞妓さんが集合する日

祗園白川には「かにかくにの碑」というのがある。 歌人・吉井勇をしのぶ歌碑であるが、かつてここに「大友」という御茶屋があった。 そしてここに、夏目漱石、谷崎潤一郎、横山大観、湯川秀樹といったそうそうたる顔ぶれが集まっていた。 戦時下にあって、「大友」は姿を消し、大友の女将・磯田多佳も66歳で亡くなったという。 そのとき、吉井勇等が発起人となって、かにかくにの碑を建立し、多くの著名人が名を列ねたのである。 吉井勇の命日11月8日には、当時の仲間、女将をしのんで多くの舞妓が献花にやってくるのであるが、今では「かにかくに祭」として祗園の名物行事になっている。ということで、祗園白川の 「かにかくにの碑」を見に行ってまいりました。 今日は2007/10/6 行くのがひとつき早かった・・・。

 

芸者と芸妓

京都では舞妓さんが成人して20歳を超えると、芸妓と呼ぶようになるが芸者とは言わない。 また、江戸では芸妓とは言わない。 昔太鼓持のことを男芸者とか太夫と言って、京都では芸者と呼んでいたため、それと区別するために芸妓と呼ぶようになったとか。

櫛は愛の証

櫛は神が宿るとされた大事なものであった。女性が亡くなると井戸に投げ捨てる習慣は京都でも少し前まであったという。 男性が女性の髪に櫛をさすというのは愛情表現のひとつとされ、女性が櫛を投げ捨てると別れを意味した。 次に「こうがい」(笄と書く)は髪を書き上げる棒状の道具で、烏帽子を被ったときに頭のかゆいところを掻くのに使った。 しかし女性の装身具になったとたんに金銀であしらわれて派手で豪華になっていった。 そしてかんざしが登場し、髪飾りで賑やかなものと移り変わった。 京女の髪の結い方にはしきたりがあって、結婚すると「先笄」(さうこう:髪の上に「橋」という髷のついた髪形に結い、子供を身篭ると「両手」という髪型に結いかえる。 これらの伝統を今に伝えているのが芸舞妓の髪型である。

初めて話を交わした舞妓はんのかんざしは豪華絢爛でした。 髪結いの話も聞かせていただきました。

 

四条大橋を造った芸舞妓はん

京都では、多くの施設が寄付により建てられているらしい。 明治7年に四条大橋の架け替えが行われた。 四条大橋は祗園八坂神社の氏子によって作られた板橋であったが、文明開化とともに、京都で始めての鉄の橋にかわったのである。 この橋材には府内の寺院から寄付された銅製の仏具類があてられたが、さらに工費の半分を担ったのは地元祗園の芸舞妓たちであったという。 やがて明治四十四年に市電が開通するということで、鉄筋コンクリートの橋に架け替えられて、くろがねは姿を消したらしいが、京都の芸舞妓さんには脱帽である。  

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