行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記70 『悪女の系譜』(南條 範夫 著)

2022-05-02 23:09:55 | Weblog
読書記70 『悪女の系譜』(南條 範夫 著)

著者は東大法学部、経済学部を卒業後、中大や国学院大で金融論や銀行論を教える経済学者でもあった。
40歳を過ぎてから執筆活動を始め、『子守の殿』、『燈台鬼』、『被虐の系譜』、『残酷物語』、『月影兵庫』シリーズなど数多くの作品を発表した。
大学での講義の傍ら、作家活動も続けた。最近では「駿河城御前試合」をベースにしたマンガを読んだが、惹き込まれてしまった。

今回は、数多い作品の中から『悪女の系譜』について感想を述べようと思う。

構成は第1話から第8話、1話につき1人の女性の生涯を追っている。
いずれも江戸時代、明治時代(明治期は彼女たちの晩年という方が正しいか)の女性で、今日、いわゆる「毒婦」と評される人物たちである。
殺人の上、金を奪う、惚れた男と一緒になるため他人を殺す、など自分の欲望に忠実と言えばそれまでだが、娯楽や刺激が足りない当時の人々は、センセーショナルな事件に大いに刺激を受けたであろうと思われる。

この8話のうち「島抜け花鳥」と「高橋お伝」について紹介する。

「島抜け花鳥」の「おとら」は、花魁になるほどの器量がありながら惚れた男・喜三郎を逃がすため、吉原に火を放ち、牢の中でほかの女囚を疑われないように殺し、その後、三宅島(八丈島とも)に流罪となった。
花魁であった花鳥が島の役人に囲われるのは当然のことであり、また、花鳥もそれを狙っていた。
暫く島での生活が続くが、花鳥は喜三郎に会いたく、島抜けを考えるようになる。
そのうち、その喜三郎も流罪となり島に送られてきた。しかし、島では自由に暮らすことはできない。また、恩赦が出るとは限らない。
やはり、「島抜け」する以外、自由を手に入れることは難しい。
「島抜け」は、命知らずというか、無謀というか、風任せの小舟で、島から本州を目指すわけである。途中で嵐や風雨によってどこに流れ着くかわからない。
だが、その危険を冒してまで目指す価値ありと見たのであろう。島抜けを敢行した花鳥、喜三郎を含めた5人は、風雨に襲われながらも運良く黒潮に乗り、千葉へたどり着いた。
花鳥と喜三郎は江戸で潜伏したが、元花魁を見知っている者の密告で捕まり再び牢に送られた。牢ではほかの女囚から搾取し、上等の着物を手に入れていた。当然、死罪と決まり、市中引き回しとなったが、処刑場まで堂々とした態度であったという。
一方の喜三郎は、花鳥が捕まった際、外出していたが自首して牢に入った。喜三郎は牢名主となる。彼は無宿者ではなく、裕福な農民の出であり、島抜けの記述を残したこともあり、模範的な囚人であったという。しかし、半年あまりで病死してしまった。

また、「高橋お伝」は、明治12年、首切り役人の山田浅右衛門(吉亮)によって処刑された。
お伝の母お春は、沼田藩家老広瀬家に奉公に出たが、暇をもらって帰っていた。近所でも評判の美人で勘左衛門は叶ぬ恋と知りつつ焦がれていた。
勘左衛門の兄・九右衛門が弟のために縁談をまとめてきた。勘左衛門は夢ではないかと思うくらい浮かれていたが、勘左衛門と結婚した時、お春は既に身籠っていた。
お伝の本当の父はお春が生涯口を割らなかったため分からず仕舞いだった。広瀬家に奉公に上がった間に手を付けられたのだった。
お春と勘左衛門は急速に仲が悪くなり、縁談をまとめた九右衛門は弟を不憫に思い生まれた子を引き取った。
この子がお伝である。
お伝は高橋九右衛門の養子となり、田畑を多く所有し、酒造にも手を広げ、裕福であった。
お伝は可愛がられ、金銭に困ることなく成長していった。しかし、頑固で我儘な性格だったという。
やがて14歳で宮下要次郎を婿に迎えたが、頑固で我儘だったため、宮下家から離縁を申し出されてされてしまった。
次に、同郷の波之助と結婚するが、波之助はまじめで働き者の上、顔立ちの良い男でもあり、お伝との仲は睦まじかった。
しかし間もなく波之助が原因不明の病に侵され、休むことが多くなった。レプラ(らい病)ではないかと村内で噂され、否定しても、とても村内で生活できる状況ではなくなった。
そのため江戸の蔵前や横浜に移ったのち、ヘボン博士からレプラと診断される。しかし、金が無ければ治療も生活ができないため、波之介はぎりぎりまで働くが、遂に倒れる。
お伝も懸命に看病したが、仕事に出るわけにもいかず、仕事を辞め看病に専念した。
その間、小沢伊兵衛という富岡の商人と知り合いになっていた。金の無いお伝は伊兵衛の愛人となったが、手に入る金では当座の生活費程度にしかならなかった。

お伝の必死の看病も空しく、波之介は亡くなり、多額の借金が残る。この頃、市太郎という遊び人のような人物に出会っている。最後まで惚れていたのがこの市太郎であったであろう。
市太郎との生活でも、市太郎が働かず遊び歩いているため働いても手元に残らなかった。
金策に走るお伝は、富岡の伊兵衛の元に突然、赤子を抱いて押し掛けた。伊兵衛も身に覚えがあり過ぎるため、50円を払い、今後関わりなしとしてお伝を返した。
この赤ん坊は近所の子供だったという。

さて、借家も出なければやっていけないお伝と市太郎は宍倉佐太郎の許に転がり込んだ。
宍倉は、お人好しで人情家であったため、お伝の境遇に同情し、当面、部屋を間貸しした。この頃、古物屋を営んで羽振り良く見える吉蔵に出会う。
吉蔵に借金を申し入れ、金を貸す代わりに…とお伝に囁く。止む無く従ったお伝だったが、吉蔵はいつまでも金を惜しみ、全く出さなかったため、吉蔵が眠っている間に剃刀で殺害した。
そして持ち合わせの金を奪ったが、思っていたほど持っていなかった。
現場の宿から離れる際、吉蔵はもう少し休みたいようだから、と言い去っていった。また、枕元に姉の仇討ちを成し遂げたと書置きを置いていた。
その後何食わぬ顔で市太郎の元に帰り、翌日には犯行に使用した剃刀を研屋で研いでもらい、自身も髪結いなど身なりを整えていた。

死体のあった宿屋から警察へ通報され、逮捕された。市太郎も捕まったが、犯行時間に不在だったことが分かり後に釈放される。
一方、お伝は明治9年に捕まってから12年に処刑されるまでの約3年、何度も供述を翻し、取り調べに時間を要した。吉蔵は自殺したとか、姉の仇であり、吉蔵を敵討ちにしたとか、とにかく、嘘から嘘を言い、裏付けに時間がかかったのだった。自分の嘘に酔い痴れているかのように、あたかも真実のように自供を続けた。やがて、吉蔵を殺害した事実が判明し、死罪が決定する。

死罪に際して、市太郎の名前を呼び続け暴れた。見かねた獄卒がお伝を押し倒し、浅右衛門が刀を振り下ろしたが、後頭部に当たり血まみれになっていたが尚も市太郎を呼び続け、三度目で漸く首が落ちた。首斬りとして名高い浅右衛門らしからぬ仕事であった。
後に「毒婦」の代名詞的存在となるお伝だが、行動自体、毒婦といわれるほどではない。この事件を題材にした出版物を通して毒婦となっていったのだ。
お伝は、男運が悪過ぎる気がして気の毒な気持ちになった。殺して良いことにはならないが、吉蔵は金に困った所に付け込んでのことだった。

明治13年に刑法が改正され、斬首刑が無くなるが、もう少し判決が長引けば斬首刑ではなっかたのかもしれない。一般的に最後の斬首刑と言われているが、お伝が最後ではない、とも言われており、真相は今後の研究を待つことになろう。

『悪女の系譜』には8人の女性が登場するが、幼少期の家庭環境が残念としか言いようがない家庭もあった。花鳥こと「おとら」も家庭環境が悲惨だった。それでも花魁に出世したのは美しさの他、高い教養を身に着けたのであろう。また、「お伝」の家庭環境はそれほど悪くはないが、出会った男がクズばかりだった。
登場した女性全員が死罪ではないが、消息不明な者もいる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。