行きかふ年もまた旅人なり

日本の歴史や文学(主に近代)について、感想等を紹介しますが、毎日はできません。
ふぅ、徒然なるままに日暮したい・・・。

読書記56『英雄児』

2016-12-25 21:00:30 | Weblog
『英雄児』(司馬遼太郎 著「王城の護衛者」収録)

 幕末の越後長岡藩には、非常の人物が登場した。河井継之助、彼は越後長岡藩では規模が小さ過ぎたのかもしれない。
江戸に学問のために出てきたかと思えば、勉学に取り組んだという姿勢は見られず、むしろ学問としては劣等生のようだった。
ただ、自己流の学問を試しているような人物だった。「学問とは、自分の実践力を拡大するもの」として陽明学の行動主義を優先に見ていた。江戸時代の官制学問は、朱子学。理詰めした上での行動だったため、知識の方が優先し、行動が遅れがちな場合があった。
 
 江戸での修行は、半年ほどで辞め、備中松山の山田方谷を訪ねていく。山田は当時、備中松山藩の参政で、藩政改革では天下に名の知れた人物であった。また、山田は下級藩士を開墾作業に従事させ、実学を学ばせていた。こうした時期に河井は山田に入門を乞うた。河井は書物は読まず、山田の仕事ぶりを見て、大いに得るところがあった。この経験が、後に長岡藩参政になり、財政赤字を克服し、重装備化するほど財政改革に成功する。長岡藩の藩主は、牧野忠恭といい、牧野家は徳川の譜代家臣である。当然、幕府を支える立場である。しかし、河井は幕末の動乱に晒された幕府の無力さを感じ、藩主が京都所司代、老中に任じられても必ず辞職するよう説得し、辞職させている。河井は藩政改革を進め、蓄財し、藩を西洋式に推し進めた。もはや、剣では勝てぬ、砲弾や銃が扱えるものが武士である、との意識を持っていた。

 河井が洋式を進めている中、幕府が崩壊した。このことを河井は薩長の陰謀である、と断定した。維新の動きを、朝廷を中心とする統一国家の建設ではなく、薩摩や長州が徳川に取って代わるものと断定していた。河井には「統一国家」という青写真があったのか、今日では分からない。ただ、東征軍が来る前に銃を買い占めなければ藩政改革は終わってしまう。急いで、開港間もない横浜港へ出向き、スイス出身のオランダ商人・スネルからミニエー銃、エンフィールド銃を買い付けた。当時、列強の商人は、廃銃になっているゲベール銃を売り付け、東北の南部藩を除く諸藩は銃に対する無知を良いことに大量に購入させられていた。ゲベールが1発込める間に、新式銃は10発撃てる状態だった。しかし、河井は南北戦争が終わり、アメリカ産の銃が大量に余っている事を知っており、また、アメリカの銃は騎兵に持たせるのを前提に製作されているが、白兵格闘の際は槍の役目も必要とし、銃身の長いミニエー銃を選んだ。スネルは、銃に対する知識だけでなく、長岡藩の首相たる河井自らが買い付ける姿勢に圧倒されたのか、長岡藩の兵制改革に協力を惜しまない、と賛辞を贈った。河井は、米や牧野家の家宝を売り、蓄財は更に進んだ。スネルは、アメリカの速射砲を持ち込んだ。日本に3門しかない速射砲を、長岡藩は2門有することとなった。同時期に、家中の子弟に教練を施し、城下の菓子屋には携帯用のパンを大量に作らせた。

 やがて北陸に官軍が進軍し、北越は長岡藩を除き、官軍に降った。洋式武装した藩が旗幟不明なのは不気味な存在であった。長岡藩はあくまでも、武装中立にこだわった。薩長は朝廷中心の国家、会津は徳川中心の国家に戻そうとしている。一藩独立…統一国家を作ろうとする中、その存在は許されるのか、可能なのか。会津藩が奥羽列藩同盟に談合に来た際、河井の武装中立に対する強い決意の前に、その想いを認めざるを得なかった。現下起きている戦は、薩長と会津の戦いであり、中立の長岡藩を防衛するため、国境を強化する、そういった考えだったようだ。また、本気だったのか、会津と薩長の調停をする、と申し出ている。対応した官軍の岩村は、河井の主張に、暗に武力による威圧があり、とても受け入れられるものではなかった。会談は当然のごとく決裂した。そして、官軍との戦争が始まったが、各所で、長岡軍は官軍を圧倒した。この劣勢に山県有朋が直接作戦指導したが、旗色は変わらなかった。長岡藩の速射砲はガットリング砲と呼ばれ、この新式武器が河井に過剰な自信を付けさせた。この砲弾の前に、官軍の一個隊が全滅同様の被害を受けた。圧倒的兵力を誇る官軍に長岡城は奪われたが、ガットリング砲の猛攻に一時は奪い返した。しかし、乱戦の中、河井は大怪我をし、その負傷が元に亡くなった。

 長岡では、河井の墓が何度も壊された。戦争に巻き込まれた、長岡の遺族達の報復であった。河井継之助は確かに天才だったかもしれない。しかし、生まれた時代、場所を間違えたと言わざるを得ない。もし、今日、どこかの県が日本から独立し、日本国内に1国が存在する、ということを宣言し、実行したらどうだろうか。その独立を護るために国内で戦争を起こしたら、犠牲になるのは国民である。長岡以外では英雄かもしれないが、ご当地ではこの男のために…と思う人が多いだろう。

 河井継之助を扱う著者の大作「峠」は、さらに掘り下げて描写している。

 武装中立の行き着く先はどこにあったのだろうか。スネルの出身地スイスのような、永世中立国を日本国内に建国しようと考えていたのか、戦国の群雄割拠を想っていたのか、河井の胸の内しか分からない。
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