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安部・自民党総理の教育バウチャー制度と教育改革

2006-09-24 19:25:04 | 国内教育
 現在、安部・自民党総理が言っている教育バウチャー制度とは、①義務教育段階で学校選択性を導入する。②公立小中学校の予算を削り、私立小中学校へ予算を配分していく、③私公問わずに、人気校に予算を重点配分する、という教育政策です。

①について、「東京都では二十三区中十九区が学校選択制を導入した結果、「進学実績のある伝統校」「施設のよい学校」が選ばれ、「荒れのうわさのある学校」「小規模校」が敬遠されています。品川区や荒川区、墨田区では入学者ゼロの小中学校が出ています」

 江東区でも入学者が七人という小学校が生まれました。「保育園のお友だちは頭のいい(隣の)学校に行った」と話す子どももいます。別の学校では「学力向上」のため小学一年生から毎日六時間授業をおこない、保護者から「やりすぎでは」の声があがっています」
(日本共産党ホームページから引用)

 ②と③について、「私立にも生徒一人あたり公立と同じ予算を配分します。例えば一学年五十人の学校と八十人の学校があるとすると、現在は学級数をもとに予算配分するので四十人学級ならどちらも二クラスで予算はほぼ同じです。しかし、生徒数を配分基準にすれば大きな差がつきます。

 バウチャー制では学校選択制で人気のない学校や、過疎地の学校は生徒が減った分だけ予算が減ることになります」
(日本共産党ホームページから引用)

 「イギリスのサッチャー改革では、一九九二年に教育水準局をつくって学校を定期的に監査し結果を公表しました。それにより以前は年間三千人程度だった退学者が、監査が始まった翌年は一万二千人に急増。評価結果を引き下げるような問題のある生徒を学校が退学にしたためでした。

 その結果、義務教育を修了できない子が8%にのぼりました。イギリスでニートが問題になったのも、学校教育から排除された青年の存在が大きいと言われます」
(日本共産党ホームページから引用)

 そこで、教育バウチャー制度を現実に実現した場合、義務教育がどのような事態になるかを述べ、野党勢力を躍進させる教育政策を対置するものです。

 その後、若干の質疑応答を掲載します。

 まず、子供の学習嫌いの原因がどこにあるかでしょうね。人間は生まれながらにして知的好奇心の塊ですからね。この人間の知的好奇心を発達段階に応じて満足させていく社会的な営みが教育です。

 ところが、今の自公政権の受験体制、検定教科書の内容は子供の好奇心、発達段階をベースにしたものなのでしょうか。

 学習することは楽しいことなのに苦しいことになっている原因は教員・保護者にあるのでしょうか。

 自公政権の受験体制、指導要領体制による政治介入が子供の学習嫌いを生む原因なのではないでしょうか。

 したがって、バウチャー制度を導入すれば必然的に受験進学校に子供が集中し、底辺校は統廃合され、教職員はリストラとなり、教育内容と方法は受験一辺倒となる傾向が加速され、学校間格差、受験競争は一層、過酷となり、「過度な競争が子供に対するストレスとなり」学校問題は一層深刻になるだけです。

 バウチャー制度は最悪の愚行だと言えます。

 最後に、安倍首相の主張とうり二つの文書があります。

 「四月十八日に日本経団連が発表した「義務教育改革についての提言」です。(1)学校選択制の全国的導入(2)学校評価(含教員評価)(3)教育の受け手の選択を反映した学校への予算配分(教育バウチャー制)を求めています。 政府の規制改革・民間開放推進会議(当時の議長・宮内義彦オリックス会長)も七月三十一日の中間答申でまったく同じ要求を掲げました」(日本共産党ホームページから引用)

 受験制度の廃止、少人数制学級の導入、教職員の多忙化解消、教職員の労働条件の維持、向上、教育費の無償化(機会均等の実質化)が緊急的に必要な教育改革です。

 その後、教科書改革へ進みますが、これは時間がかかるでしょう。


 質疑応答

 ①「ガイドラインとして指導要領による内容の一律化は是非は公平性を保持するためには否定しない立場」

 同感です。ただ、今現在の文部科学省・財界・自公政権主導の指導要領ではなく、子供・保護者・教員・研究者主導の指導要領である必要があります。これを制定するのに時間がかかりますが、すばらしいものができると考えます。

 ②「バウチャーの問題はある種、職業専門学校(高専など)を加味していないことも問題になるでしょうね。学校進学よりも「自分がしたいこと」を探すことの方が圧倒的重要であって、学歴至上主義的な見解でバウチャーを見るのは疑問視します」

 ①でコメントしたような新しい指導要領を制定し学校公教育を実現して行く中で確実に解決できますね。いや、コメントしていてワクワクしますよ。好奇心が刺激されて。

 ③「勉強は辛い側面」

 辛いのは何故でしょうか。

 ④「最近思うのですが、人間の好奇心というのは情報が少ない時代のことであって、現代のような情報飽和の時代では、好奇心のレベルが落ちているのではないか」

 そもそも、人間は外界の刺激無しには存在し得ない社会的な存在ですから、孤独と感覚遮断を完全化すれば、廃人になることは科学的に証明されていますね。

 だから、人間の好奇心のレベルは今も昔も底なしであるから科学の進歩と自由の実現も底なしに歴史的に実現して行っているのですね。

 メディアリテラシーを的確に行う授業計画を実践できないのは何故でしょうか。先生がいうように、

 「自分教員時代の睡眠時間は4時間でしたから(日曜は含めませんが)。オイタも現役時代に自殺しそうになるほど、現場と自分の構想の差異が出てしまったわけですが、かなり劣悪な環境ではあります。公務員というより学校の下僕ですからね」

 つまり「自公政権の受験体制、指導要領体制による政治介入が子供の学習嫌いを生む原因なのではないでしょうか」ということです。

 ⑤「授業がつまらないから&勉強したことが効用になる機会が少ないから・・・だと思います」

 その背景が、自公政権の受験制度等の教育現場への政治介入なのでは?(教育基本法10条違反・学習指導要領体制、教育基本法「改正」勢力(自公政権))

 ⑥「自殺しそうになった原因は、教師としての自分の能力不足です。断言します。自分の理想とする教育像と求めるあまり、それを押し付けてそうになったことへの自己嫌悪であり、教育システム的なものの責任は皆無ではないにしても、主因は自分だと断定しております」

 「ちなみに、勉強が辛いのは、強制されてるという側面と、苦手意識、分からないことへの苛立ち、ルーチン作業の嫌悪など色々ありますが、楽しく勉強する手法を知らないからでもあるでしょうね」

  「情報に対して、INPUTされたものをそのままOUTPUTするという情報の未消化の状況が顕著なのだと思うのです。これは、思考訓練(自己の価値観を疑う)ができないために、思い込み、思考停止に至るということです。疑問を持たないこと、教えられたことをそのまま受容する、こんな教育をした人間に責任があるのです」

 しかし、自然と社会を対象として「何故か」を思考し、実験、社会行動することが人間の探究心であり、科学の発展史ですよね。

 そうすると、何故、本来、「何故か」を探求する思考力を持つ人間が思考停止の教育を行わざるをえないかという問題になりますね。明確な矛盾であり問題点です。

 そこで、財界、自公・文部省式の学習指導要領上の知識詰め込み型の過度に競争的な受験教育制度、教員の多忙化によるメディアリテラシー教育の不十分性に問題があるのではないでしょうか、ということなのです。

 ⑦「自然科学と社会科学では回答が変わるでしょう。自然科学では数量、統計によって探求した成果が明確にできるわけですが、それ以上の探求は不可能になります。(統計的な数値を精査することはできますが、それ以上の検証作業は事実上不可能ですからね)

 社会科学ではその思考するにエンドレスがあるわけですね。だから教える上でどこかで理解するために簡略化することになります。例えば、この世に自然数は存在しません。

 まったく「1」「2」というものは存在せず、小数点までの数字でものは存在しえるわけです。机上の空論である経済学もあくまでも理論であって、その理論は細かい事象まで完全網羅した理論ではなく大雑把なものであるのですね。

 このような簡略化作業によって理解したことが全てだと思うから、思考停止になるんですね。このように教育における簡略化は教える上では回避しえないことではないでしょうか」

 学校教育のカリキュラムですので基礎・基本の自然科学の実験と仮説の授業となりますから、先生がいうような学校設備で実験不能な対象は基礎・基本を超えた最先端自然科学ですね(笑) 

 ただ、そのような現代の設備では実験不可能な仮説自体が科学であったり、非科学であったりした自然科学の歴史を教えることは必要ですね。仮説理論の確実性と不確実性が何に起因するかという学習です。

 僕もこんなことが優しく分かりやすく書かれた文献を読んでみたいです。

 社会科学についてはおのおのの価値観が社会行為化されたらどのような社会が実現するか、というおのおのの価値観と社会性の関係、さらに、現在と過去において、各々の価値観が実現した場合の歴史上の事実を学習することで、各々の価値観の社会科学性を思考、議論、日常生活化していくことになります。
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東京都「日の丸・君が代」問題、東京地裁判決(06・9・22)

2006-09-24 01:23:57 | 国内教育
 前提事実というのは、被告(都教委)の出した通達の性格の実質を認定する背景・経過のことだと分かりました。
 
 この点、被告は各学校長に対する通達であり、直ちに教職員の服務命令になるものではないと主張していましたが、通達が出された背景・経過・具体的な教職員の処分状況を踏まえて、通達の性格の実質を認定していました。

 すなわち、通達は各学校長に対する通達という形式ではあるが、実質上は教職員への服務命令であると認定しました。

 さて、上記、通達は学習指導要領の一環として出されたものであるから、学習指導要領の法的拘束力を検討しました。最高裁判例を踏襲し、大綱的基準論を採用し、一般的な法的拘束力を認定しました。しかし、個別具体的な教育内容、方法は現場の裁量に任されるとしました。

 この点、国歌・国旗について教えなくてよいと言う判決ではなくて、これを積極的に教えて行くことが国際社会に生きる日本人民として重要な素養だということです。
 
 しかし、①国旗、国歌をどう教えるのか②入学式・卒業式以外のどの行事に国歌、国旗を導入するか③どのような方法で国歌・国旗を斉唱・掲揚するか、は現場の各学校の裁量だという判断です。その具体的な方法にまでは学習指導要領及び通達の法的拘束力は及ばないということです。
 
 さらに、学校長の職務命令についても、原則として、所属教職員は学校長の職務命令に従う義務があるが、職務命令に重大かつ明白な瑕疵ある場合には、これに従う義務はないとする最高裁判例を踏襲しました。

 今回のケースでは職務命令が教職員の精神的自由権を侵害する重大かつ明白な瑕疵があると認定しました。世界観の違いによる不快感は日本人民としてお互いに寛容である必要があるということでした。

 こうして、教職員に「日の丸・君が代」を起立、斉唱させる被告(都教委)の行政行為について違法だと結論しました。

 追記:現実は受験制度の下での教育となっていますから、どこまで「日の丸・君が代」を通して自国と他国に対する敬愛の念を育成する教育活動が行えるかは疑問ですが、ともあれ、国旗・国歌についての教育活動は学校教育で行われても当然だと言うことですね。

 06年秋の臨時国会の最重要法案である教育基本法「改正」と関連させて今回の判決の意義を考えると東京地裁はこのような政治情勢の中で司法権の独立を示したのであり、すばらしい判決だと言えます。なお、すべての論点について最高裁判例を踏襲しているので、今回の判決が上級審で覆ることがあるのならば、最高裁判例の変更ということになるのであり、明らかに政治情勢上(教育基本法「改正」)の判断が働いた判決ということになります。
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