うらくつれづれ

折に触れて考えたこと ごまめの歯軋りですが

卑弥呼幻想 

2007-08-28 14:01:33 | 文化

2007/5/15(火) 午後 10:30生活歴史

今回は、古代史の謎、邪馬台国(発音はヤマタイではなくヤマト)。いったいヤマト国はどこにあったか。江戸時代以来、議論百出である。素人が出る幕がさそうであるが、支持する考えを紹介します。。

まず、ヤマト国の位地に関して、これだけ議論していても決定打が出ないということは、魏志倭人伝をいくら検討しても位地問題を解決できないということでしょう。距離・方角に矛盾があり、しかもそれぞれが不正確ということだ。解決の方向は、位地情報以外から証拠を探すことにつきる。

とりあえず、魏志倭人伝を確認しよう。

「倭国にはもともと男王がいた。七、八十年経った頃、倭国は混乱状態になり、長年にわたってたがいに攻め合う状態が続いた。そこで、一人の女性を王として共立した。卑弥呼という。年齢は既に高かったが夫はいなかった。弟がいて、政務を手伝っていた。王となって以来、(卑弥呼に)会えるものは少なかった。下女千人を側に置いていた。出入りできるのはただ一人の男子だけであり、食事を持っていったり言葉を伝えたりした。住んでいる所には宮殿・楼閣・城柵を厳かに設け、常に人がいて武器をもって警備していた。」

「景初三年(239年)の六月、倭の女王が大夫難升米等を派遣し(帯方)郡に詣り、(魏の)天使に朝貢したいと申し出てきた。(帯方郡の)太守劉夏は、文官と武官を付けて(魏都)洛陽に送った。これに対し、その年の十二月、詔書が倭の女王宛に出された。 卑弥呼を親魏倭王となし、金印・紫綬を帯方太守を通して汝に授ける、また、使者である難升米を率善中郎將に、牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を授ける、と。」

まず問題は、この魏への遣使は、卑弥呼の共立後どれくらいたっていたのかということです。

当時の倭は、チャイナの冊封国です。奴国以来の伝統です。冊封国に変化があれば、即座に挨拶に伺うのが義務でしょう。多分、共立後早期に魏に遣使したと想定されます。日本の新任総理が、米国大統領に挨拶に赴くようなものでしょう。

即位に関する通説は、180年頃共立されたとするものです。この180年頃というのは、後漢書に見える『桓霊之間(147-189)、倭国大乱』という記述に基づいています。卑弥呼が共立されたのもこの乱の終だろうという推測です。しかし、国際儀礼から推測すれば、共立は239年の少し前となる。180年説では、共立時既に年長大な卑弥呼が何十年も統治するのは無理でしょう。

更に倭人伝は続く。

「247年(正始8年)、新しい帯方太守着任に際し、ヤマトは使節を送り、狗奴国との紛争について説明した。太守は、塞曹掾史の張政を倭に派遣し、大夫難升米に対し、詔書・黄幢(軍旗)を与え告諭した。そのあと、卑弥呼が死んだ。大いに冢を作った。径百余歩で、殉葬者は百余人。次に男王が立つが、国中が従わず、互いに誅殺しあい千余人を殺した。」

この文章は、ヤマトが帯方郡に救援を求めたと理解していましたが、原文にあたると、着任挨拶の服属儀礼が妥当のように思えます。また、詔書が難升米に与えられているのも注目です。卑弥呼が表にでないのは、なんらかの病に冒され、儀式に出られなかった可能性があります。あるいは、託宣を行う巫女は神聖であり接触が許されなかったという理由もあるかもしれません。卑弥呼と難升米は、ヤマトを共同統治していた可能性もある。卑弥呼の死亡時期は不明ですが、247年後まもなくなことは確かでしょう。

「(死後)卑弥呼の一族である十三歳の少女台与を立てて王としたところ、ようやく国中が定まった。張政らは檄により台与に告喩した。告諭を受けた台与は、(新任挨拶として)、今度は、洛陽に、張政等が還るのを送るとともに、倭の大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を派遣し、男女生口三十人、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雜錦二十匹を献上した。」

卑弥呼が死んだ後も、張政はヤマトに留まっていた。宗主国代表として、卑弥呼から台与への政権移行に深く関与したことは間違いない。そして、今度は台与に対し告諭している。台与は、面会を断れなかったようだ。13歳の少女に政治実務が可能な筈はない。これも、巫女であり、いかに託宣がヤマトの政治の要となっていたかがわかる。

また、いつにまにか掖邪狗が難升米に変わって率善中郎將に魏から任命されてしまっているが、これは派遣後に任命されたのでしょう。

以上の記事からわかることは、確実な卑弥呼時代は239-247年ということです。

では、その頃の考古学資料はどうなっているか。近年の考古学の成果は著しい。大和盆地には、二つの大遺跡がある。唐子・鍵遺跡と巻向遺跡です。

(唐子・鍵遺跡)
唐子・鍵遺跡は、BC3C頃からAD3C頃まで続く大遺跡で、平成3年、 渦巻き状の屋根飾りのついた楼閣を描いたBC1世紀とされる土器が出たことで有名です。平成11年からの調査では、BC3世紀とされる50畳以上の広さの大規模建物が見つかり、同時期の北九州地方に劣らない発展性が示された。つまり、畿内の集落も「百余国」の前史の段階で九州と肩を並べる力を持っていたことがあきらかとなった。

田原町の調査報告書サイト(http://www.begin.or.jp/sakura/karako2.htm)では、次のように書く。

「3つのムラがクニに
市場/テクノポリス/石器工房 600年の盛衰 「メトロポリス・纒向」の台頭
 弥生時代を通じて栄えた唐古・鍵は、邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(桜井市)にも近い。600年の盛衰の歴史に、ムラからクニヘと発展した弥生・古墳時代の社会が見えてくる。
 唐古・鍵は当初、西、南、北の3集落に分かれ、最も古い紀元前3世紀の遺構がある西地区を同町教委は「クニの祖先が住んでいた『父祖の地』」とみている。建物の発見はここ、三つのムラは同2世紀、直径400m前後の大環濠に囲まれるが、大型建物が造られたのはそれ以前だった。
 西地区では祭り用井戸が多く見つかっており、祭祀が行われる所でもあったようだ。そこに巨大な建物が建っていたことに、同県立橿原考古学研究所の寺沢薫調査第1課長は「3地区の中でも力のあるリーダーが西地区にいたのだろう。後に大集落を作る勢力も西から出たのでは」と推測する。
 大環濠時代に入ると、3集落は機能を分け持ったらしい。西地区では瀬戸内から東海の土器が出ており、各地の物産が集散した「市場」。銅鐸や鋳造炉跡が多い南地区は「テクノポリス」。北地区は石器の材料となるサヌカイトの原石が出土しに「石器工房」。職人を従え、交易をつかさどる強力なリーダーの存在が見える。
 紀元前1世紀には、土器に描かれた中国風の高層建物「楼閣」がそびえていただろう。そのころの唐古・鍵は物流や手工業生産の大拠点として都市機能を持ち、大和盆地に圧倒的な勢力を築いていたとみる専門家もいる。ムラを脱し、クニと言える存在にまで成長していたのかもしれない。
 邪馬台国の時代の3世紀、東南4キロにある浄水や祭祀の施設を備えた「メトロポリス・纒向」が台頭。唐古・鍵は4世紀、歴史の主舞台から消えた。」

纒向遺跡は、桜井市の北部、北は天理市と境を接し烏田川と巻向川に挟まれた東西2km、南北1.5kmに及ぶ広大な遺跡の総称である運河や祭祀跡が整然と並びまた纒向古墳群という最古の古墳群を擁している。纒向古墳群は、前方後円の形をしているものの、前方部が短く未発達なため特に「纒向型前方後円墳」と呼ばれる。定型化した前方後円墳が造られる前の墳丘形式とされ、このため、纒向古墳群は我が国最古の古墳群とされる。また、史上発の前方後円墳とされる全長280mの箸墓古墳も存在する。

纒向遺跡は大集落遺跡といいながら、ムラを構成する住居址や倉庫址は発見されておらず、遺跡を囲む環濠もない。しかも、弥生時代の集落は存在せず、古墳時代前期(3世紀初頭~4世紀)になって急激に発展し、周辺の古墳群の築造が終わる頃には衰退する。一帯は、弥生時代には未開発地域であったと思われ、3世紀初めになると、急に村落が形成されはじめ、やがて大集落に発展していったようである。だが、およそ150年後の4世紀中頃には、大集落が消滅してしまった。

纒向遺跡から出土した土器844個のうち123個(15%)が東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・南関東などから搬入されたものである。中でも東海地方の土器が最も多く、朝鮮半島の韓式土器も出土している。

また、遺跡の西側にかたまってある石塚、矢塚、勝山の古墳群から、昭和46年に、幅5m、深さ1m、長さは南北200mにわたった運河とおぼしき大溝が発見された。溝にはヒノキ板で護岸工事が施されていた。溝を延長していくと一方は初瀬川に、もう一方は箸墓に伸びていると言う。幅5m、総延長2600mの大溝が遺跡内を人字形に通じていて、集水施設もつくられていた。

纒向遺跡は、あらゆる観点からみて従来の弥生遺跡とはレベルが異なる遺跡です。まさにメトロポリスと呼ばれるべきものでしょう。この遺跡の絶対年代が最近示された。古墳群の一つ勝山古墳出土の木製品を年輪年代方で測定したところ、199年プラス12年以内と言う結果が出た。勝山古墳は箸墓に先行するので、箸墓が卑弥呼の在位年代239-247年とぴったり重なる可能性が大ということです。

つまり、考古学的資料によれば、ヤマト国はその時期と遺跡の性格からして纒向以外には考えられない。現在では、考古学者の90%はヤマト国畿内説と言われるのも頷ける。

(記紀)
では、記紀の記述はどうなっているのか。記紀では、箸墓は、明確に倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされている。崇神天皇の大叔母で、崇人朝に数々の託宣を行ったことが伝えられている。三輪山の蛇神と結婚したが、その姿に驚き、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまったという。 また、箸墓は、「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。

箸墓は、史上最初の大規模前方後円墳です。 古代人にも、その記憶が強烈に残ったと考えられます。これほどの伝承を否定することはよほどの明確な証拠が必要ですが、そんな証拠はありません。考古学は、記紀の記述と矛盾するどころか記紀の記述を支持する方向で発見が進展しているといえるでしょう。

箸墓のような巨大かつ前例のない古墳をい築いたということは、ヤマトトトヒモモソヒメは、天皇に匹敵する地位を有していたということでしょう。卑弥呼という事です。男弟は、崇神でしょうか。

考古資料と倭人伝、記紀を総合すれば、倭人伝の時代は箸墓の築造年代の250年前後と一致し、記紀のヤマトトトヒモモソヒメが箸墓に葬られたという記事と重なる。つまり、卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメです。

また、ヤマトトトヒモモソヒメは崇神朝に死んだことになっているので、247年は崇神朝。記紀のこの時代の絶対年代は信用できないことは明らかですが、没年干支を信用すれば、崇神の没年は、258年ということになる。台与は、崇神の娘トヨスキイリヒメではないでしょうか。

以上、ヤマト国畿内説を紹介しましたが、小生は神武東征も事実の可能性が高いと考えています。その時期を推測すると、子供が成長して王位を継ぐまでに仮に平均15年とすれば、神武は150年前のAD100年頃、即位したことになる。

ただ、これは、宮崎から進入し、鍵。唐子の勢力を制圧したに留まるものでしょう。神武は北九州の勢力の一派が宮崎に定着したもので、それ以前に北九州から畿内に進出していたニギハヤヒと連合したのかもしれない。そして、纒向の地に首都の建設を開始した。その後は、チャイナの史書にあるとおり、政権混乱の時期もあったでしょう。宮崎の西都原古墳群には、纒向と同じAD3C初頭と見られる最古の形式の古墳があるとの報告もある。宮崎に残留したグループとの関連が推測されます。

学会では、皇室の日向神話を信用する考えはこれまで歯牙にもかけられていない。宮崎のような辺境からヤマトの征服者が出るはずはない、捏造だというのである。しかし、むしろ、辺境から英雄がでるのではないか。アレクサンダーがいい例でしょう。神武東征ルートの拠点には、地名に和田という名称がつくなど、海人集団の根拠地があったことが知られていいます。天孫プラス隼人プラス海人集団の破壊力は相当なものであったのではないか。すくなくとも、神武東征を否定する考古学上の証拠は発見されてはいない。むしろ、今後の考古学の発見は、記紀の伝承を実証するような資料がでてくるのではなかろうか。古代人の能力を過小評価してはいけない。

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