uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
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こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(45)

2021-04-11 03:47:22 | 日記














このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。










 第45話 最終回


 同1891年(明治24)、
 退助は立憲改進党、大隈重信と会談、
民党連合を形成、連携した。

 その後の民党連合と政府の官吏党は、
議会運営で対立を深める。

 第二議会に於いて自由・改進両党は
多数派を形成した。
 そして政府提出議案を悉(ことごと)く否決、
対抗する政府は直ちに議会を解散する。

 そして品川内務大臣が政府系機関を動員、
民党に対する選挙干渉を行う。

 買収、暴漢を使った警察官による脅迫、
政府と関係する銀行、商社員、
取引ある商工業者への投票妨害、
選挙投票所前での暴漢奔走の威嚇行為。

 この結果、多数の有力民党議員が落選した。
 それでも妨害にめげず、
依然として多数派を形成する。

 その後も民党への干渉は続き、
自由党のみならず、立憲改進党も深手を負う。

 結果立憲改進党は求心力を得るため
立憲革新党・大手倶楽部や国権派と合同し
進歩党を結成した。

 進歩党は政府に近づき、次第に自由党は
孤立化する。


 1896年(明治29)自由党はついに
第二次伊藤内閣に協力する道を選んだ。

 退助は内務大臣として入閣する。


 そのことが世間の批判を浴びた。
内務省とは、警察など治安維持を含む
統制を職務とする部署でもあり、
自由党などの民党は
その弾圧を受ける立場だった。

 当然退助の入閣は
裏切り行為にしか見えない。

 但し、退助のその選択は
決して裏切りを企図したものではない。
むしろその逆であった。

 思い出して欲しい。
退助は土佐藩時代、
当時失脚中だったが、
弾圧を受け、逮捕された
土佐勤王党の武市瑞山を助けるため、
ワザワザ審理する役目の
大監察 (大目付)に復帰しているのだ。

 退助は決して土佐勤王党の過激な行為を
支持してはいなかった。
だが同じ尊王攘夷思想を持ち
命がけで戦った彼らを
何としても守ってやりたい。

 彼らを国の宝として考えた。

 だから自分が失脚した身であろうが
藩の方針に逆らおうが、
守るべき者たちは何としても守る。

 それが退助の生涯を通じての
姿勢であり、人柄である。


 だから今回も自由民権運動を守るため、
自ら取り締まりの本丸に飛び込み、
彼らを守る。

 それは退助にとって当然の行為。

 だが、そんな退助の本心を
見抜けない世間は、
退助を批判、攻撃した。


 『板垣退助は政府が施す
内務大臣という飴に喰らいつき、
自由を奉ずる者たちを売った。』


 曰く、
「自由死すとも、板垣死せず」と。


 当時の新聞等での退助は、
伊藤博文、大隈重信と共に
風刺界の大スターであった。

 無責任な風刺に晒された退助。



 けれども、
一切の言い訳をしていない。

 真意を自らの行動で証明する。

 余計な言い訳は見苦しい。

 内務大臣として退助は善戦した。
だがアウェーでのその努力は、
所詮「独り相撲」に過ぎない。

 第二次松方内閣でも留任したが、
その辺が限界だった。
 次第に立場を失い内務大臣を辞任、
真意を理解されないまま、
1897年(明治30)無念にも
自由党総理も辞任した。

 
 だが退助はそれだけでは終わらない。
信念を持ち、命がけで行動してきた者とは
そんな軽い存在ではない。
 彼の存在はあまりにも大きく
抜けた穴は誰も埋められないのだ。


 1898年(明治31)
今度はそれまで対立していた
進歩党と合同し、
憲政党を立ち上げた。

 この時退助は、
総理大臣就任を打診されている。
しかし、彼は
「それはワシの柄じゃない。」
と云って断っていた。


 何とも勿体ない話である。
政治家の誰もが目指す
総理大臣の地位を蹴るなんて。

 しかし退助にとって
そんな名誉の地位に興味はない。

 自分の主義を通すための立場を確保し、
道具として利用する。
 何としても彼らを守る。
 その目的を果たすために
またしても内務大臣に就任。
弾圧阻止に執念を燃やした。

 この時の内閣を有名な
『隈板内閣』(わいはんないかく)と呼ぶ。

 日本初の政党内閣であった。

 (それまでの内閣は、表向き政党を装うが
藩閥組織の域を出ていない。)
 
 しかし、所詮水と油。
国権派が牛耳る旧進歩党と
旧自由党は内紛に明け暮れ、
たった4か月で崩壊、総辞職した。

 そして1900年(明治33)
立憲政友会設立を見届け、
退助は政界を引退する。

 引退後は機関紙を発行したり、
華族の世襲禁止の活動に従事するなど、
最後まで自由と平等と人権の確立のため
戦い続けた。

 
そして1919年(大正8)7月16日
肺炎のため薨去。
享年83(満82歳)であった。


 ここであるエピソードを。

 退助は一切の財産を投げ打ち、
自由民権のために供じたため
次第に追い詰められ生活苦に陥る。

 1911年(明治44)
維新の功により拝領した
備前長船盛重の名刀を
人を介して密かに売ろうとした。
「これはどこで手に入れたのか?」
とその刀を持ち込んだ人に問うと、
最初はためらったものの
その者は、
「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、
『買い取ってもらうように』
と頼まれて持参した」と打ち明けた。
  驚いた杉山茂丸は、
「この刀は伯が維新の際にその功により、
拝領したものだと聞いているが…」
と嘆息する。

 この後、
「板垣ほどの者が
これほど困窮しているのだから」
と山縣有朋に説いて、天皇や元老から
救援金が出るようはからった。

 (Wikipediaより)

何処までも頑固で決して信念を曲げない男。
 弱い者に慈愛の心をみせ、
強い者を決して恐れない。
(ただし、女性には弱かったが。)

 生涯、この国に自由と平等と人権を
確立させるため、戦い続けた。





 国会議事堂中央広間には、
議会政治の功労者である板垣退助、
大隈重信、伊藤博文の銅像が鎮座する。

 だが、台座はその3つだけではない。

(画像は参議院様より借用)

 銅像がおかれていない
台座がひとつ存在する。

 空席の台座。

 それは、退助や重信、博文の
志を継ぐ者のためにある。

 志を持ったあなたを待っているのだ。

 「こりゃ!〇〇!!」

 幼い頃、そうやって叱られまくったあなた。
 
 そして私。

 銅像を建てて貰うという
地位や名誉のためではなく、
自分の戦いに志と信念を持つ。
その生き様に誰もが共感する。

 そんなあなたの行動を待っている。

 空席の銅像には、
そうした願いが込められていると思う。




 最後に退助が受けた
『自由死すとも板垣死せず』
の風刺を、自分流にこう理解している。

 即ち、
『今、そして今後に於いて、
自由を圧殺する者が出てきても
ワシ(退助)が撒いた種により
意思を継いだ者が必ず現れる。
自由が何度死んでも、
必ず不屈の意思で復活させる。
ワシが死んでも
ワシの意思は死なん。』


 天国で先に逝った象二郎たちと、
あの世のお菊の店から見ています。


   おわり