だいぶ雪は解けましたが、まだ寒い日が続いています。宇野ゆかりの皆さま、
いかがお過ごしですか? 季節の変わり目。どうぞご自愛ください。私たちの宇野
一家が大正から昭和初期まで暮らした中頓別町の鍾乳洞を紹介します。
軍艦岩と呼ばれる石灰石がむきだしになっていたり、ドリーネと呼ばれるくぼ地があったりと
独特の地形が広がっています。
昭和初期に発見され、研究者による調査が行われた結果、新生代第3紀の貝殻石灰岩に
できた比較的新しい珍しい鍾乳洞であることが分かりました。当時からホタテ貝のような
貝がたくさん棲んでいたんですね。北緯45度の鍾乳洞、国内最北と言えるのではないで
しょうか。機会があれば是非見てみてください。
亡くなった伯父たちの話によれば、当時は子どもたちの遊び場だったようです。宇野貞誠
(私の祖父)は、子どもたちにロウソクの炎が消えるようだと引き返してこいと注意したと
言います。今では整備されて、きちんと管理されているようでした。
えっ、まさかゲンゴロウが…? もしそうだとしたらこれも貴重な存在です。
いかがお過ごしですか? 季節の変わり目。どうぞご自愛ください。私たちの宇野
一家が大正から昭和初期まで暮らした中頓別町の鍾乳洞を紹介します。
軍艦岩と呼ばれる石灰石がむきだしになっていたり、ドリーネと呼ばれるくぼ地があったりと
独特の地形が広がっています。
昭和初期に発見され、研究者による調査が行われた結果、新生代第3紀の貝殻石灰岩に
できた比較的新しい珍しい鍾乳洞であることが分かりました。当時からホタテ貝のような
貝がたくさん棲んでいたんですね。北緯45度の鍾乳洞、国内最北と言えるのではないで
しょうか。機会があれば是非見てみてください。
亡くなった伯父たちの話によれば、当時は子どもたちの遊び場だったようです。宇野貞誠
(私の祖父)は、子どもたちにロウソクの炎が消えるようだと引き返してこいと注意したと
言います。今では整備されて、きちんと管理されているようでした。
えっ、まさかゲンゴロウが…? もしそうだとしたらこれも貴重な存在です。
先日、偶然宇野様のサイトを発見し、興味深く読ませていただいているところでございます。
宇野様同様、当家も熊本(現 熊本市南区;旧 飽田郡海路口村)より北海道に入植。
宇野様のご先祖がおられた大正期から昭和初期には、枝幸郡頓別村(本家が現 浜頓別町と中頓別町)におりました。
宇野様同様、小生も先祖のルーツを探索しているところでございます。今後も何か情報がございましたら、よろしくお願いいたします。
屯田兵も含めて熊本から北海道に入植した人たちは
結構いるようですね。中頓別町にも「熊本団体」という
地名が残っていると思います。ひょっとしたらその当時
賑わっていた町ですれちがっていたのかもしれない
・・・などと想像すると、何だか不思議ですね。
『殖民公報」第24号(明38・1)には、北海道移住の動機が掲載されており、
1 先移住親戚知己の誘導 72.5%
2 先移住者の家族 13.2%
3 小作応募 5.5%
4 自己の発意 4.4%
5 団体移住 3.9%
6 その他 0.6%
(%は戸数についての百分率)
となっております。
そのため、同郷である方々に対しての関わりも十分にあったのではないか、と想像しており、本当にすれ違っていたのかもしれないと思ったりもします。
(ですので、宇野様の情報から何か手掛かりになるようなことがあればと思い、拝見しておりました)
また(私自身は札幌在住でございますが)、当家は小さいながらも、浜頓別町市街地で「熊本屋旅館」(伝 明治末期;現在も営業中)を創業しており、中頓別町にも支店(支館?)を出しておりました(中頓別町の方は、最近閉館しております)ため、もしかすると関わったこともあったかと思っております。
宇野様のように藩士であれば、文献等かなり手掛かりがあるかと存じますが、当家は親族と思しき者が、惣庄屋兼郡代の肥後藩御家人で、文化6年に苗字御免となっている(「町在」による)ので、それほど手掛かりがない状況でございます(当家の苗字が全国的に少なく、ほぼ熊本市と岡山市の特定集落に集中しているので、まだ調べるのには助かっておりますが)。
今後とも情報等、楽しみにしております。
私自身も、今年のGWには1週間程度、2回目の熊本調査に行ってくる予定でございます。
ご存知でしたら、すみません。
その動機、なぜ中頓別なのかは推測の域を出ないなのです。おっしゃるように同郷の方の誘いがあったのかもしれませんね。なかなか熊本に出かける機会がありません。実りの多い調査旅行になるといいですね。