戦後積極的に公務を開拓されたのは高松宮宣仁親王とも三笠宮崇仁親王ともいわれる。
梨本宮伊都子妃の日記からは、高松宮殿下妃殿下が戦後GHQの将校達との交流に努められていた様子が窺えます。
敗戦国になり、他国の占領統治下に置かれるなど前代未聞、日本始まって以来初めての経験です。私達の先祖達も大変だったが、皇室も大変だったのでしょうね。
高松宮殿下は日米親善活動の一環で、「国際基督教大学」(ICU)の「設立準備委員会名誉総裁」もされています。
眞子さま、佳子さまが、ICUを進学先に選ばれたのは皇室とまんざら縁が無いでもなかったから?
秋篠宮殿下は高松宮家の祭祀を引き継いでいらっしゃいますしね。
ダンスの宮様、三笠宮崇仁親王殿下。
未来の東北博が協賛した「フォークダンス市民のつどい」に参加し、フォークダンスを踊られる三笠宮さま。左は同妃百合子さま(仙台市の同市体育館)[日本フォークダンス連盟提供](1987年07月撮影) 【時事通信社】
服装雰囲気から1950年前後か?
三笠宮崇仁殿下は多方面に活動されたことが知られていますが、私が真っ先に思い浮かぶのは「ダンスの宮様」としての御活動です。
1947(昭和22)年、日本レクリエーション協議会が発足し、翌1948(昭和23)年に財団法人日本レクリエーション協会が設立されました。
三笠宮崇仁親王殿下は、1949(昭和24)年に、日本各地でフォークダンスの普及を行っていたW・ニブロ氏(進駐軍民事部所属)主催のパーティーに招待され、それ以降、フォークダンスの普及に取り組まれました。
また当時、日本で「レクリエーション」という言葉を知らない人が多いなかで、その社会的な意義や重要性を広められ、1950(昭和25)年に北海道(帯広)で開催された第4回全国レクリエーション大会に大会総裁として初めてご臨席され、1951(昭和26)年に日本レクリエーション協会総裁に就任されました。
その際、協会の法人組織としての基本財産の窮状を心配され、当時5万円の寄贈を賜って基本金に加え、法人としての基盤を支えていただいたというエピソードも残っています。(公益財団法人日本レクリエーション協会HPより)
三笠宮崇仁殿下は昭和26年より同協会の総裁、平成2年~18年名誉総裁、平成18年~平成28年10月7日薨去まで名誉顧問をされていましたが、その後協会は総裁、名誉総裁を置いていません。
総裁、名誉総裁は、長年協会に尽くしてこられた殿下の功績を称え、御礼の意味もあったのかな?と、私は解して居ますがなかなか潔いことと思います。
崇仁殿下が全国にフォークダンス普及に務められたため、当地にも殿下ゆかりのフォークダンス団体がいくつかあります。
その中の1つが割と近くにあるため、三笠宮崇仁殿下と聞くと真っ先に「ダンスの宮様」が浮かぶ。
なお、宮様のフォークダンスは中高生の学園フォークダンスとは、全く違うもので、キチンと踊るのは結構難しいようです。
近くの団体の団員は崇仁殿下が視察にお出でになったことを誇りにも自慢にもしていますが、宮様の行く先々でフォークダンスの団体ができたのは、国民が宮様を敬愛していたからだろうと思います。
何がいいたいかと言えば、宮様の御活動が国民から敬愛を引き出したのではなく、国民の間に宮様(皇室)への敬愛が下地として存在していたから、宮様の御活動も成果があがったということです。
国民の皇室への2000年の畏敬、尊敬があればこそ、ダンスの殿下は行く先々で敬愛されたのです。
平成の上皇上皇后も同じです。
平成の上皇上皇后が国民から敬愛される皇室を作ったなどというのは、大嘘です。