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憂国の花束

右でも左でも無く、上でも下でも無く。

祖国日本よ! 誇り高くあれ。

今日は「<建国記念>の日」

2021-02-11 14:42:15 | 皇室

「建国記念日」と「建国記念の日」


日本は何時から日本という国になったのか。諸説あります。
でも、今此処に日本という国があるからには、国が出来た日があることは間違い無いでしょう。
その「国ができた日」をお祝いしましょう。
というのが「建国記念の日」です。
単純に戦前の紀元節を言い換えたものでもないのですね。
では、2月11日ではなく、別の日でも良かったんじゃないかと思うのですが。
天皇の継承と存在意義に関わってくるので、2月11日は動かせなかったのかも?
難しいですね。
私は、今は、2月11日で良かったのだと考えています。

世界で「建国記念日」を法律で定めて祝日とする国家は多いが、何をもって建国記念日とするかは、国によって異なる。日本では、建国の日が明確ではないため、建国神話(日本神話)を基に、建国を祝う日として「建国記念の日」が定められた。
2月11日は、日本神話の登場人物であり、古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日 (旧暦)とあり[1]、その即位月日を明治に入り、グレゴリオ暦に換算した日付である。
1872年(明治5年)11月15日太政官布告第344号「神武天皇御即位祝日例年御祭典」によって、旧暦1月1日に当たる1月29日が祝日とされた。翌1873年(明治6年)1月4日太政官布告第1号「五節ヲ廃シ祝日ヲ定ム」によって、神武天皇即位日という名称となり、1月29日に諸式典が斎行された。同年3月7日太政官布告第91号「神武天皇御即位日ヲ紀元節ト称ス」によって、紀元節という名称に改称された。同年7月20日太政官布告第258号によって、紀元節の日付は2月11日に改められ、翌1874年(明治7年)2月11日から適用された。 この紀元節は1948年(昭和23年)にいちど廃止されたものの、改めて1966年(昭和41年)に「建国記念の日」として国民の祝日となり、その翌年から適用された。(wiki)

1月29日が2月11日になったのは、
*グレオリオ歴に換算するときに閏年があることを忘れていた。
*旧暦(天保暦)の正月1日 をそのまま太陽暦に当てはめたが、換算によって2月11日にした。
まあ、後者、かな?

よく「大日本国憲法発布の日を建国記念の日にした」と言われる人もいますが、建国記念の日の前身である紀元節が定められたのが1873年。大日本帝国憲法の発布は1889年。大日本帝国憲法の発布日を紀元節にしたのではありません。 
むしろ大日本帝国憲法の発布日を紀元節に合わせたのでしょうね。

いつとは確とはしないが、確かに日本という国は始まった。
日本という国の始まりを大切に思います。
日本が好きですから。

両陛下、東日本大震災被災3県をオンラインでご視察へ

2021-02-11 12:15:32 | 天皇
各紙共。
東日本大震災から10年を迎えるのを受け、今月から3月にかけ、天皇、皇后両陛下が福島、宮城、岩手の被災3県をオンラインで視察される方向で宮内庁などが調整を進めていることが10日、関係者への取材で分かった。福島県から順次、視察される予定という。 

雅子皇后の和歌(女性自身記事投稿日:2021/02/11 06:00 最終更新日:2021/02/11 06:00 より抜粋引用)
’12年の歌会始。 
《春あさき林あゆめば仁田沼の岸辺に群れてみづばせう咲く》 

陛下と雅子さまは、’96年4月に土湯温泉町をご 訪問。
「雅子さまは仁田沼に群生するミズバショウの光景を浮かべながら、被災地の人々に思いを馳せて詠まれました」(皇室担当記者)

 ’18年の歌会始 
《あたらしき住まひに入りて閖上(ゆりあげ)の人ら語れる希望のうれし》 

雅子さまは’17年11月、陛下とご一緒に復興公営住宅「名取市閖上中央第一団地」で被災者と交流された。雅子さまはその時の気持ちを、’18年の歌会始でこの歌に込められたのだ。 

’20年の歌会始め
《災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす》 

陛下と雅子さまは’19年12月末、台風19号で被災した宮城県と福島県をお見舞いされました。雅子さまは被災地で高校生などの若者が復旧作業に励む姿に感銘を受け、この歌をお詠みになられたのです。 

雅子皇后は常に国民に心を寄せていると言いたいために御歌を出したのでしょうが…。私は忘れていない。


朝日デジタル
皇太子ご夫妻、宮古市田老で被災ホテル見学
阿部浩明2016年6月22日03時00分
高台移転団地の「三王団地」で住宅再建した住民と懇談される皇太子さまと雅子さま=宮古市田老(代表撮影)
 被災地視察のため岩手県入りしていた皇太子ご夫妻は21日、宮古市で最も被害が大きかった田老地区を訪れ、防潮堤の上から復旧が進む市街地の様子などを見学した。
 被災当時の姿で保存されている震災遺構「たろう観光ホテル」では、松本勇毅社長が撮った津波映像を目の前の実際の風景と重ねながら視聴。しぶきを上げて襲ってくる津波の威力に驚き、1回の予定だったDVD上映を「もう一度見せてください」と求めた。
 松本社長は「津波の恐ろしさを伝えることで、迅速に逃げる行動につながってほしい」と説明した。 

岩手めんこいテレビ
皇太子ご夫妻、宮古市ご訪問 被災者と懇談される(岩手16/06/21)
20日、岩手県内入りされた皇太子ご夫妻は、21日は、東日本大震災で被災した宮古市を視察された。田老地区の防潮堤では、黙とうをささげられたほか、被災者に、お言葉をかけられた。
20日夜、宮古市内のホテルに宿泊した皇太子ご夫妻は、午前9時30分ごろ、田老地区の防潮堤を視察された。
ご夫妻は、津波で亡くなった人たちへの哀悼の意を込め、海に向かって深々と頭を下げ、犠牲者に、黙とうをささげられた。
このあとご夫妻は、震災遺構となっている、たろう観光ホテルを見学された。
津波で、ホテルの4階まで浸水したことなどの説明を受けられたほか、たろう観光ホテルの松本勇毅社長が撮影した津波の映像をご覧になった。
映像を流したあと、雅子さまが「もう一度見せてください」と話し、2回にわたって、ご覧になったという。
松本社長は「『お―おー』と声を出されていたので、津波のすごさや勢いを感じられたのだと思う」と話した。

その後、浄土ヶ浜ビジターセンターに向かい、仮設住宅などで暮らす被災者と懇談された。 
ご夫妻は、腰をかがめて、いすに座る被災者と同じ目の高さで話された。
懇談した人は、「『大変だった』ということで言われましたので、『1歩ずつ1歩ずつ、前を向いていくしかない』と答えた」、「わざわざ遠いところまでいらしていただいて、その分も、みんなで復興のために頑張っていこうと、あらためて思う」などと話した。
午後には、防災集団移転事業で高台に整備された三王団地も視察され、住民を慰労された。
そして、皇太子ご夫妻は21日午後、JR盛岡駅で新幹線に乗り、岩手をあとにされた。 (6/21 21:14) 

御自分の思いを隠そうとしない(隠すことができない?)雅子皇后は正直なかたなのかもしれませんね。
その正直さは皇后としてどうかは別として。

2016年岩手県ご視察の両陛下(当時皇太子同妃)
たろう観光ホテル視察

ちなみに翌年2017年の歌会始めは御歌なし。


2012年 春あさき林あゆめば仁田沼の岸辺に群れてみづばせう咲く
2013年 無し
2014年 無し
2015年 恩師より贈られし本ひもとけば若き学びの日々のなつかし 
2016年 無し
2017年 無し
2018年 あたらしき住まひに入りて閖上の人ら語れる希望のうれし
2019年 大君と母宮の愛でし御園生(みそのふ)の白樺冴ゆる朝の光に 
2020年 災ひより立ち上がらむとする人に若きらの力希望もたらす
この時17年振りの歌会始めご出席に周囲は驚きました。
で、正月早々「災い」と詠み上げられたのにも驚きました。

2011年より以前の御歌はネットではみつかりませんでしたが、愛子様を詠んだものが多かったような?
「4月の歌なのに<春あさき>はおかしい。」と言う声があがっていますが、東北ですから、4月はまだ春が浅いと感じてもおかしくはありませんね。
<春あさき>は雅子皇后の実感でしょう。しかし、そこへ水芭蕉ですかー。
やっぱり何か変。