おかにゃん氏が運営されている『あれは,あれで良いのかなPART2 』。いつも独自の観点から様々な感想や提言が書かれていて大変に面白いブログなのだが、今回の岩手・宮城内陸地震についても様々な問題提起が成されている。
その中で「マスコミ報道は控えめに」とのタイトルで、
このような大災害の場合,「代表取材制度」が取れないものでしょうか。
各社ヘリを飛ばし,市役所に電話し,取材車をたくさん走らせるなどしてリアルタイムでニュース映像を流しています。
もちろん,これにより親族知人らの安否を確認できるという大きなメリットはありますが,一方で,電話回線がますますつながらなくなる,市役所の担当者は報道対応だけに追われて情報収集や災害対策に手が回りにくくなる,二次災害(ヘリ衝突や余震に巻き込まれるなど)の懸念,みんなで撮影だけして一切救助活動などをしないということで被災者から不信を抱かれる危険性,救助活動の邪魔などがあげられます。
取材は最小限にしたうえで,公表される安否情報や被害情報をリアルで流すという方が良いのではないでしょうか。
今回も,各社の映像ともほぼ同じでしたので,スポーツ大会のごとく1社の映像で十分でしょう。
との提言が成されている。
今回に限らず、災害や事故が起きた時に、このような取材体制が取られることは珍しくない。現場は、まさしく「猫の手も借りたい」状況だろう。そんな中、マスコミへの電話応対に忙殺される職員のことを考えると、「あんなことさせなければ、もっと現場のための仕事ができるだろうに」と感じる。
ただし「広報」という仕事は情報発信。現場の状況を全国に伝えることで、全国から支援が寄せられる効果があると思う。そう考えると、まったくの無駄とはいえず、むしろ一個人が被災地のための仕事をする以上の効果(たとえば、その広報活動の結果として一万人のボランティアが現地に救援に訪れれば一万倍の効果が得られる)が得られることもある。
つい先日書いた「戦場カメラマン」の仕事にも通じる。
「戦場写真などで良く議論される。
「写真を写してる時間があるなら、まず倒れた人を助けろ」
報道側の論理は、こうだ。
「確かに人命が一番尊い。しかし悲惨な現場を報道することで戦争が終われば、何十万、何百万の命が救われる」
この秋葉原での行為について、『週刊新潮』今週号に次のような記事がある。
「友人2人殺害を目撃した電機大生の携帯カメラへの怒り」
倒れている2人の周りにアッという間に、人垣ができた。
「僕は、辛いというよりも悔しい。友達2人が死にそうな時、周りにその姿を携帯やデジカメで撮っている野次馬がたくさんいたんです。僕は止めたのに――。
”不謹慎だから止めてください!”そうはっきり僕は言った。でもみんな止めようともしない。僕はいまでも、何であの人達は写真を撮っていたのかわからない。現場にいることを自慢しているようにしか見えなかった。多分、あの人達は写真を友達に見せるのかなと思うと、堪らなく嫌な気分になりました」
確かに自分がこの大学生の立場にいたら、刺されて苦しむ友人にカメラを向ける群集に殺意すら覚えるかもしれないと思う。だが一方ではこうした映像が報道に二次使用されていた現実がある。
もしも現場に報道機材を携帯したマスコミ関係者がいたら、どんな行動を取ったか考えてみる。おそらく救助よりも報道を優先したのではないかと思う。前述の戦場カメラマンの論理だ。
冒頭の被災地への取材攻勢、そして秋葉原での撮影行為。どちらも難しい二択だと感じる。
どちらが正しく、どちらが間違っていると言い切れる問題ではない気がする。カルネアデスの板みたいな難題と感じる。
ひとつだけ言えることは、取材側・報道側の「こころの問題」が大きいということだろう。
たまたま現場に居合わせたことを「ラッキー」と感じ、「これはスクープが撮れた」という気持ちで報道されれば、それがたとえプロの報道機関であっても相応しい態度とは思えないし、逆の態度であれば発信者がたとえ素人でもそれは「報道」と呼ぶに値する行為のように思える。
その中で「マスコミ報道は控えめに」とのタイトルで、
このような大災害の場合,「代表取材制度」が取れないものでしょうか。
各社ヘリを飛ばし,市役所に電話し,取材車をたくさん走らせるなどしてリアルタイムでニュース映像を流しています。
もちろん,これにより親族知人らの安否を確認できるという大きなメリットはありますが,一方で,電話回線がますますつながらなくなる,市役所の担当者は報道対応だけに追われて情報収集や災害対策に手が回りにくくなる,二次災害(ヘリ衝突や余震に巻き込まれるなど)の懸念,みんなで撮影だけして一切救助活動などをしないということで被災者から不信を抱かれる危険性,救助活動の邪魔などがあげられます。
取材は最小限にしたうえで,公表される安否情報や被害情報をリアルで流すという方が良いのではないでしょうか。
今回も,各社の映像ともほぼ同じでしたので,スポーツ大会のごとく1社の映像で十分でしょう。
との提言が成されている。
今回に限らず、災害や事故が起きた時に、このような取材体制が取られることは珍しくない。現場は、まさしく「猫の手も借りたい」状況だろう。そんな中、マスコミへの電話応対に忙殺される職員のことを考えると、「あんなことさせなければ、もっと現場のための仕事ができるだろうに」と感じる。
ただし「広報」という仕事は情報発信。現場の状況を全国に伝えることで、全国から支援が寄せられる効果があると思う。そう考えると、まったくの無駄とはいえず、むしろ一個人が被災地のための仕事をする以上の効果(たとえば、その広報活動の結果として一万人のボランティアが現地に救援に訪れれば一万倍の効果が得られる)が得られることもある。
つい先日書いた「戦場カメラマン」の仕事にも通じる。
「戦場写真などで良く議論される。
「写真を写してる時間があるなら、まず倒れた人を助けろ」
報道側の論理は、こうだ。
「確かに人命が一番尊い。しかし悲惨な現場を報道することで戦争が終われば、何十万、何百万の命が救われる」
この秋葉原での行為について、『週刊新潮』今週号に次のような記事がある。
「友人2人殺害を目撃した電機大生の携帯カメラへの怒り」
倒れている2人の周りにアッという間に、人垣ができた。
「僕は、辛いというよりも悔しい。友達2人が死にそうな時、周りにその姿を携帯やデジカメで撮っている野次馬がたくさんいたんです。僕は止めたのに――。
”不謹慎だから止めてください!”そうはっきり僕は言った。でもみんな止めようともしない。僕はいまでも、何であの人達は写真を撮っていたのかわからない。現場にいることを自慢しているようにしか見えなかった。多分、あの人達は写真を友達に見せるのかなと思うと、堪らなく嫌な気分になりました」
確かに自分がこの大学生の立場にいたら、刺されて苦しむ友人にカメラを向ける群集に殺意すら覚えるかもしれないと思う。だが一方ではこうした映像が報道に二次使用されていた現実がある。
もしも現場に報道機材を携帯したマスコミ関係者がいたら、どんな行動を取ったか考えてみる。おそらく救助よりも報道を優先したのではないかと思う。前述の戦場カメラマンの論理だ。
冒頭の被災地への取材攻勢、そして秋葉原での撮影行為。どちらも難しい二択だと感じる。
どちらが正しく、どちらが間違っていると言い切れる問題ではない気がする。カルネアデスの板みたいな難題と感じる。
ひとつだけ言えることは、取材側・報道側の「こころの問題」が大きいということだろう。
たまたま現場に居合わせたことを「ラッキー」と感じ、「これはスクープが撮れた」という気持ちで報道されれば、それがたとえプロの報道機関であっても相応しい態度とは思えないし、逆の態度であれば発信者がたとえ素人でもそれは「報道」と呼ぶに値する行為のように思える。