上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 3

2013-04-13 09:28:05 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~我如古の井戸編~ 3

 宮城盛英さんは筆者の思っていた通りの人物だった。募黙でひょうひょうとしていた。自分がアメリカ兵と一緒にガマや亀甲墓や井戸に潜んでいる多数の住民を救出したことを他人に語ることはなかった。ましてや、それが英雄的行為だとは全く感じなかった。道で転んだ子供を助け起こすことと大して変わらなかった。それだから、フィルムの中の白いハットの青年が自分に似ているが、自分は白いハットなどかぶったことはないから自分ではないだろうと軽く考えて、島袋記美子さんに、そう言ったのだ。あの米須精一さんもそうだった。数千人の住民を救出しながらケロッと忘れていた。それが沖縄の聖衆高さる人々なのだ。
 だが、宮城さんのそばに立っている仲宗根千代さんは、六十年前、目の前の井戸から自分たちを救い上げてくれた宮城さんのことをはっきり覚えていた。「この人が私の命の恩人よ。この人がこの井戸の底に降りてきて、『アメリカ人はあなた方をいじめたり、殺したりしないから井戸から出よう』と言ったので私たちは井戸から出ることにしたのです。この人のおかげで私はこうして生きているのです」と仲宗根さんは明るく語ったが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。二へーデービル、と宮城さんに抱きついた。宮城さんは恥ずかしそうにほほ笑んだ。このすばらしい再会はこの井戸をそのまま保存し、テレビ・クルーと一緒に井戸の底の洞窟に潜ってくれた呉屋盛一さん夫妻のチムグクル(心遣い)がなければ実現しなかったろう。
 さて、井戸の取材が終わると、テレビ・クルーは我如古公民館に向かった。そこには数十人の我如古住民が待っていた。山里ディレクターがすべて整えていたのだ。いよいよ、例のフィルムのテレビ上映が始まった。観衆はしんと静まり返り、食い入るようにテレビの画面を見つめる。あちらこちらから、声が上がる。「アレー××ヤサ」「画面をとめて!」「もう一度そこ」さまざまな声が交錯する。観衆は皆、我を忘れて画面の世界と一体となっている。整理がつかない。
 だが、カメラマンの赤嶺さんは観衆のさまざまな表情を見事にとらえていた。声も拾っていた。井戸から救出された人々の氏名と消息が次々と判明した。これまで、目標(井戸)を探すのに苦労していたが、目標にたどり着くと一挙にすべてが明らかになる、そんな感じだった。もちろん、フィルムに登場する人物のすべての氏名と消息が判明したわけではない。
 棚原盛福さんは観衆の中で静かにテレビの画面を見ていたが、その時、彼の口から「アッ」と声が漏れ、目から涙があふれ出た。画画に映っていたのは今は亡き、妻の春子さんの姿だった。春子さんは愛らしい笑顔を浮かべている。初めて見る亡き妻の少女時代の映像だった。彼の胸には春子さんと過ごしたすばらしい青春が走馬灯のように去来していたに違いない。筆者が映像の力を実感した瞬間だった。
 フィルム映像は写真と違い、登場する人物が今、生きているように動くのだからインパクトが大きい。アメリカ軍は百人以上のカメラマンが戦場の場面だけではなく、沖縄住民を無数に撮影した。
 実を言えば、沖縄戦のフィルムを見た者はほんの一握りにすぎない。それは恐ろしい、悲しい戦争を誰も見たくないからだ。山里孫存さんを先頭に今、テレビ界も新しい視点から沖縄戦の生き残った者たちを訪ねる旅が始まっている。

棚原盛福さん。 今は亡き妻の春子さんの映像を画面に発見し、喜びの涙を浮かべた瞬間

在りし日の棚原春子さん。井戸の中から救出された直後、笑顔をカメラに向ける、いや、棚原盛福さんに向けている。

つづく


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