上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

沖縄をダメにした百人 44

2013-04-08 09:23:02 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-10

 「未来への墓標」編集委員の山根安昇が1フィート運動と関わりを持つようになったのはそれほど昔のことではない。 1フィート運動が池宮商会の家賃支払いで汲々としているのを助けてあげたのが山根だった。 しかし、彼が元琉球新報の記者であったことから、沖縄タイムスOB大山哲と共に25周年記念誌の編集委員となっている。 30周年記念誌でも編集委員となっている。 彼とは深い交際はないが、良く知っているつもりだった。 彼と山城興勝(おきかつ)記者が「世界のウチナーンチュ」取材で南米に向かう途中でニューヨークに立ち寄った時、ぼくは彼ら二人の記者にバッタリ道で出会ったのだ。 1984年の4月のことだった。

 ぼくはアメリカのフィルム調査員のリチャード・プレリンジャーからアメリカ公文書館やグリーンバーグ私立フィルム資料館を案内され、12本のフィルムを選び、沖縄に戻る直前だった。 彼はそれまで1フィート運動のことは全く知らず、立ち話でぼくが1フィート運動を始めたことをニューヨークで知ったのだ。 そんな無知な男が20数年後に1フィート運動記念誌の編集委員となっているわけだ。 もちろん、ぼくは「1フィート運動」の醜い内幕については山根に話したことはない。 しかし、昨年の12月27日ぼくが「1フィート運動の会」の解散記者会見に乗り込み、出席していた福地曠昭石川元平新崎盛暉まよなかしんやらを名指しで批判したことは彼の耳にも届いていた。 その後、間もなくしてパレット久茂地の映画館の前で彼と出会った時、彼は「話を聞きたい」とぼくに言った。 そこで後日、「Caf’eにふぇ~ら」という瀟洒(しょうしゃ)な店で彼と会った。 その時、ぼくは江崎孝も呼んで、二時間以上にわたって1フィート運動の醜い内幕を説明した。 ぼくは1フィート運動の会がぼくに謝罪せねばならないと、強く言った。 彼は「そうなるようにしよう」と言った。 ところが、実際には彼は記念誌の編集委員を粛々と務め、嘘八百の「未来への墓標」でぼくの名を少し上げただけで、真相を隠したままにしている。 かれは大田昌秀嘘つきであることを知りながら隠している

 「未来への墓標」の中で、彼は二つの論説を発表している。 「1フィートから学んだこと」と「沖縄戦とメディアの変遷」だが、大山哲と同じく、沖縄戦については「硬直した反戦主義」を凝りもせず繰り返しているだけだ。 

「1フィート運動はウチナーンチュの心の叫びを伝えた、という点でその功績は計り知れない。 ・・・1フィート運動は歴史の逆説として日本という国のあり方まで照射した。 ・・・私たちの日本軍の亡霊との戦いはまだまだ続く。1フィート運動がそのことを教えた。」 

こういう無意味な言葉を踊らせて、自分を鼓舞しているだけだ。 彼はインターネットも知らず、世界も知らず、自分たちが1フィート運動を破滅させたことも知らず、「元新聞記者」の肩書だけで生きている。 いや事実上、死んでいるのだ。

─つづく


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