上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 17

2013-04-27 09:38:53 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

カンパのお願い 

5月30日に結審があります。 

徳永弁護士も手弁当で支援して下さっていますが、 

打ち合わせ等をするにも交通費等の出費を無視できません。 

カンパは支援している三善会にお願いします。 

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ゆうちょ銀行からの振込の場合 
【金融機関】 ゆうちょ銀行
【口座番号】 記号:17010 口座番号:10347971
【名  義】  サンゼンカイ
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ゆうちょ銀行以外の金融機関からの振込の場合 
【金融機関】 ゆうちょ銀行
【店  名】  七〇八(読み:ナナゼロハチ)
【店  番】  708
【口座番号】 普通:1034797
【名  義】  サンゼンカイ 


前回の続き

~轟の壕編~ 11

 銃剣が明かりを反射してキラリと光った。彼女は四歳の息子にそっと言った。「泣いたら、兵隊さんに殺されるよ。戦争が終わったら、いっぱいマンマをあげるから、泣かないでね」
 友軍の兵士が子供を殺した、というヒソヒソ話が伝わってきた。一番心配なのはいつも胸に抱いているわが子のことだった。赤ん坊が日に日に弱っているのが分かった。泣き声も出なくなった。母乳を出ずために水をガブ飲みするのだが、乳は出てこない。ただ気休めに赤ん坊に乳首を吸わせておくのだが、その吸引するカが弱くなっていくのが母親だから、よく分かる。手のひらを闇の中でわが子の顔にあてる。今は熱がある、息はしている、と手のひらで判断していた。
 その日、わが子に触っていると、足先から冷たくなって、鼻から息が出なくなった。乳飲み子の娘は死んだのだ。自分の腕の中で死んだのだ。彼女はこのまま一緒に死んでしまいたい、と長い聞、じっと娘の骸を抱きしめていた。声を押し殺して泣いた。
 その後、彼女は死んだ子を抱いたまま、ぽかんと闇の天井を見上げるだけだった。自分の体力が尽きようとしていることを感じていた。今日か明日か、死が近づいている。彼女だけではなかった。数百人のじっと、うずくまっていた住民も死が追っていることを知っていた。赤ん坊も子供も老人も、次々倒れ、死んでいった。壕の中には死臭が立ち込めていた。外に出るに出られず、絶望が暗黒の壕を満たしていた。
 だが、奇跡が起きようとしていた。この闇の世界に天女が降りてきたのだ。山里和枝さんは”天女”のことをはっきり覚えている。天女のように美しい女性だった、と筆者に語ってくれた。
 その人の名を知ったのは、つい最近のことだ。二〇〇二年夏、和枝さんは親戚にあたる沖縄テレビの山里孫存ディレクターから連絡を受けた。轟の壕から数百人の住民が救出される場面のフィルムを入手したが、その中にアメリカ兵に囲まれた女性の正体が判明したというのだ。
 その人の名は玉城朝子さんと言い、ひょうとしたら和枝さんがよく話してくれた”命の恩人”かも知れない、と言うのだ。
 フィルムに登場する女性は確かに、壕から救出された数百人の住民の命の恩人だった。山里ディレクターはてきぱきと仕事を進め、和枝さんがハワイに住んでいる玉城朝子さんに国際電話で六十年ぶりに”再会”し、命を救ってくれたお礼を述べる機会を与えてくれた。その場面は沖縄テレビの「むかし、むかし、この島で…」と題された番組で紹介されたことを読者は覚えて、いるだろう。いや、激しく動いている時代の潮流の中では、いかに賢明な読者でもすっかり忘れているかもしれない。
 和枝さんが「命を助けていただいて、本当にありがとうございます」と言うと、電話の向こうの”命の恩人”は「いいえ、私はただ、人として当然のことをしただけですの。お互いに六十年後にこうして話し合えて、よかったわ。いつか、お会いできたらいいですね」と明るく答えた。和枝さんは胸がいっぱいになった。
 あの轟の壕では日本兵は鬼畜以下の存在となり子供まで殺し、危うく全滅するところだった。人の命を救う、という当たり前のことをできる状態ではなかった。玉城朝子さんはいかにして「人として当然のこと」を成し遂げたのだろうか。
 玉城朝子さんは十歳までハワイに住み、英語も日本語も自由に話せた。子供のころ、八ワイで出会ったアメリカ人はみんな優しかった。アメリカ人には悪い印象は全くなかった。だが、戦争が近づくと新聞も世間も「鬼畜米英」一辺倒となった。

つづく


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