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京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

梅小路蒸気機関車館

2015-02-18 13:42:02 | 京都









蒸気機関車の日本の鉄道開業100周年を記念して京都市下京区にある梅小路機関区の扇形庫を活用して開設された。
施設は、旧梅小路機関区の扇形庫及び転車台を活用した「蒸気機関車展示館」と、旧二条駅舎を 移築・復元した「資料展示館」からなる 旧二条駅舎は、1904年(明治37年)に京都鉄道が本社社屋を兼ねて建設した日本現存最古の木造 2階建和風駅舎で、景観に配慮しながら平安神宮を模して造られた京都市有形文化財に指定歴史 は古く、1876(明治9)年、京阪神間開通時にさきだって「京都機関庫」として京都駅の北西に開設 されたのがはじまりです。
扇形庫は1914年(大正3年)に建設された鉄筋コンクリート造で、2004年(平成16年)12月10日に 5t電動天井クレーン(1915年(大正4年)完成)、引き込み線とともに国の重要文化財指定ならび に土木学会選奨土木遺産に選奨された

実際の蒸気機関車のけん引する客車に乗れて楽しめる、大人気の「SLスチーム号」。館内展示運転 線の往復1kmを約10分間にわたり、蒸気機関車の旅の気分を満喫できます。
当館の動態保存蒸気機関車はC62形、C61形、C57形、C56形、D51形、8620形、 B20形の7両があり 山口線で運転しているC57形とC56形式を除くC62形、C61形、D51形、8620形は、順番に当館の展示 運転線でSLスチーム号として運転しています。
日本初京都市電の車両が8両保存されている。このうち狭軌1形電車27号(旧京都電気鉄道車両の復 元車)が動態展示され、他に7両が静態保存されている。
大阪ある通科学博物館が老朽化し手狭となっているため本蒸気機関車館を拡張して新しい博物館を 建設車両などの展示品の一部を交通科学博物館から新博物館へ移し、交通科学博物館については 規模は日本最大の鉄道博物館となる2013年12月19日に館名が京都鉄道博物館に決定した公式発表 が行われた、7100形蒸気機関車「辨慶」と名を変え全国を暗脚の「義経」号も2016年に動態保存蒸気機関車と して登場の予定
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雪化粧の渡月橋(嵐山)

2015-02-06 16:18:53 | 京都




長岡京より京に移った時に栄えた又愛宕参りで宿も五十軒あり栄えたが、今は桜や紅葉で江戸時代はお伊勢さんへ七度熊野へ三度、愛宕さんへは月参りと歌われている、全国に約900社を数える愛宕神社の本社として火伏の神様として信仰を集めている愛宕神社がある。

渡月橋周辺の嵐山地域は、特に桜と紅葉のとして多くの観光名所が存在する
直指庵・大覚寺・清凉寺・天龍寺・野宮神社・二尊院・寂光寺・落柿舎・祇王寺・滝口寺・法輪寺・


何年振りかの雪が積もった嵐山へ渡り鳥も舞い散る粉雪を歓迎するかのように楽しんでいる
同じ思いで雪をカメラに収める人々で賑った・・・・
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本願寺・太鼓楼

2010-01-11 14:26:14 | 京都


新選組は、池田屋騒動(1864年)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなった事もあり、翌年屯所を 壬生から西本願寺に移し、境内に新選組本陣の看板を揚げ北東にあった北集会所(現在の参拝会 館)と太鼓楼を使用。
本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士達が 何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、新選組は本願寺の中に本拠を移すことによって一石二 鳥の効果をねらった。
新選組は、境内で大砲の空砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、乱暴を繰り返したため参拝 の門信徒や僧侶らを震撼させる日々が続いた、何だかの圧力で南約1キロの地(不動堂村)に最後 の屯所を置く、坂本竜馬暗殺の3日後に”油小路の変”近藤は同志の離脱に困り果て参謀伊東(北辰 一刀流)を自分の妾宅に呼び出して酔わせ暗殺他に同志3名死・・・・・・旧来より時を報せたり、法要 の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築である。
結成時からの元隊士(島田魁)が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、終生同士の供養のお念仏を喜 びなが番ら新選組隊員の生涯供養し太鼓番をしたという話が伝わっております明治33年3月20日73歳で死。「島田魁日記」新選組研究資料を残した、

京都では長州よりも新選組の方が人気が有る何故かと言えば 長州は”蛤御門(禁門)の変”で京都大火被害(人口37万人江戸は約倍)は、町数118、家屋42000、土蔵1500、寺社塔頭480、武家屋敷 600に及んだ。新選組よりも火を放った長州藩に怒りを隠せ無かった。

西本願寺・飛雲閣

2010-01-10 13:22:34 | 京都




西にのびる渡り廊下で結ばれている黄鶴台は、柿茸寄棟造りの床の高い建物で確か床は鴬張りで隠し廊下や部屋があつた様に記憶している、黄鶴台を降りれば別棟の浴室があり、西南隅に唐破風をもつ蒸風呂と鉄釜などがあります。蒸風呂は、上の窓や板戸の開閉により温度を調節するようになっています蒸風呂でさえ時の天下人何時命を狙われるか知れぬ為忍者屋敷の様なカラクリが面白かったのは記憶している年に一度公開があります。

「鶯張り]
人が床の板の上を歩く事によりきしみ音が鳴る様につくられた仕組みを鶯張りと言い、外部侵入者の危険探知の為に設けられたとされている、京都大学で調査されたが解明されず床の製作は難しいと言われている

西本願寺・世界遺産が無料で拝観出来る

2010-01-05 16:27:23 | 京都


西本願寺の南通中央に無料で近づいて見られる桃山時代の装飾彫刻が国宝即ち世界遺産がある。
本願寺の南にある唐門(日暮門)は、入母屋造りの前後に大唐破風を配した黒漆塗に彩色彫刻を施した豪華な四脚門で、日暮門(一日見ている間に日が暮れる)とも呼ばれて。








正面梁の間に麒麟と雲文、扉には牡丹に唐獅子の透かし彫りを入れ、両袖壁には中国の古伝説上の隠士の典型である許由(西側)と巣父(東側)の故事を彫刻して随所にほどこされた彫刻は極彩色に彩られ、彫が深く厚みがあり、精緻な飾金物とともに黒漆塗の柱や梁に映えて工芸品のような美しさを醸し出しています気に入れば時間無制限で観察できます、うむ!!徳川家光も負けづに陽明門(日暮門)を招いたのか・・・・
臨済宗大徳寺にもある聚楽第・日暮門も同じく彫刻や金具などは、多くの動植物(鯉・鶴・孔雀・麒麟・鳳凰・虎・獅子・椿・桃・松・竹・葡萄等)や自然物(雲・波・太陽)で構成されている。
聚楽第の面積は現在の京都御所 130,000m²に等しい



月読神社(安産石)

2010-01-03 19:45:32 | 京都


朝鮮半島に遠征し新羅を征討した英雄的支配者、神秘的霊威力を示す巫女といったものであった、 神功皇后が神の子応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産したものと伝えられ、舒明天皇の 時代に月読尊の神託によって当社に奉納された。
安産の霊験があるといわれている水害を避けるため斉衡(さいこう)3年(856)に現在地(西京区松室山 添町)へ移ったという。
江戸時代には衰退し松尾大社の摂社となっているが朝鮮半島に遠征し新羅を征討した、神功皇后と 奇妙な関係に思える。境内は、江戸時代に建てられた本殿、中心に御船社聖徳太子社などから構成 されている月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈 町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。
 
日本書紀によれば、(487年)阿閉臣事代が任那に遣わされる途中、壱岐で月讀尊の神託があった のでこれを天皇に奏上し月延石(安産石)もとは航海の大族である壱岐氏が壱岐島(長崎県)で 祀っていた航海の神。壱岐島から京都へ分祀されるにあたっては秦氏が関わった可能性が強いと いわれている。壱岐氏は航海の大族 で、秦氏の新羅からの渡来活動に協力した親縁。秦氏 が、 渡来人たちの渡日ルートである韓半島→対馬→壱岐→九州の航海安全を祈るため、月読神の勧請 に応えたとされる。

月読神社・月延石(安産石)

2010-01-02 14:57:10 | 京都


神功皇后が神の子応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産したものと伝えられ月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。

月読神社・月延石(安産石)

2010-01-01 13:37:17 | 京都




山をバツクに鄙びた神社が落西ある、昔海上民族である阿曇一族(漁業・航海の民)が淀川、桂川を遡行してこの地に入ったのではないかと推測される、舒明天皇の時代に月読尊の神託によって当社に奉納された。
安産の霊験があるといわれている水害を避けるため斉衡(さいこう)3年(856)に現在地(西京区松室山添町)へ移ったという。

晩秋の落柿舎

2009-12-29 14:59:10 | 京都




芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。
向井去来(きょらい)(1651~1704)は江戸時代の俳人、蕉門十哲の一人である。去来は27歳の時に隠士となり、35歳で嵯峨野に庵を構えた。39歳の秋頃から嵯峨の庵を「落柿舎」と呼ぶ。去来の『落柿舎の記』に、庭に柿の木が40本あり、その柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくした。
それが落柿舎の名の由来と書かれている。本庵前庭に安永元年(1772)に書かれた俳人井上重厚著
の「柿ぬしや梢はちかきあらし山 去来」という句碑等がある。元禄4年(1691)芭蕉は落柿舎に滞在し、有名な『嵯峨日記』が書かれる。去来は凡兆と二人で蕉風俳諧の白眉、俳諧の古今集と言われた『猿蓑』の編集をする。晩年『去来抄』を書き残し、蕉門の誉れ第一の俳人である。
芭蕉は滞在した元禄四年梅雨のじめじめした風景を思い起こさせる「五月雨を集めて早し最上川」梅雨の終わりの豪快さを詠んだのか
           五月雨や色紙へぎたる壁の跡
の句を残し、また嵯峨日記を記したのもこの落柿舎だと云います。
元禄七年(1694) 大阪十月十二日午後、病死。享年五十一歳。十四日、大津・膳所の義仲寺境にて 埋葬 された、葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼった。
             旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
芭蕉の先祖は浅井長政(お市の方)の家臣(無足人・半待半農)であった敗者の無残さを幼き頃より深い感銘を受けた芭蕉は源義経や義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを 寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残している、又西行法 師と同じ道を旅をしている、西行はかつては北面の武士と云われ合い通じる物が合ったか?
義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め
次の句を詠んでいる
            義仲の寝覚めの山か月悲し
都からみちのくへ左遷させられた歌人藤原実方の終焉の地・笠島では
             笠島はいづこ五月のぬかり道
義経が自害した土地を訪れて
              夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
越前を訪れて実盛の甲(かぶと)を見て
              むざんやな 甲の下の きりぎりす
白髪を染め、一人踏みとどまった最期の戦いの敵将が、3歳のときに命を救っ貰った木曾義仲 の恩人であった家臣に義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、 ついにその死が確認された時、かつての命の恩人を討取ってしまったことを知った義仲は、人 目もはばからず涙にむせんだという。
 

芭蕉忍者(隠密)説…伊賀の里の出身者であり、歩く速度が異様に速く、5ヶ月間の旅の旅費は?
各地で句会に出席して歩く旅は忍者の格好の隠れ蓑であり訪れる土地は外様大名の領地が多かっ たと指摘されている『おくのほそ道』の内容に不自然な点があることから、伊達氏の仙台藩の動向を 調べる任務を負っていたのではと一部で指摘されている。出発前は「松島の月が楽しみ」と言ってい るのに、いざ松島に着くと一句も詠まずに一泊で素通りし、なぜか須賀川では7泊、黒羽では13泊 もしている。そもそも江戸を出る時から、同行人の曾良の日記「3月20日出発」と、芭蕉の「27日
出発」でズレている。こうした両者の記録違いは約80ヶ所もあるという。芭蕉の任務が諸藩の情報 収集であれば長旅の連続も理解できる。だがこれらは取るに足らないことだ!!!・・・


晩秋の落柿舎

2009-12-27 15:32:44 | 京都


落柿舎の入口には常に蓑(みの)と笠(かさ)がかけてある。これは本来庵主の在庵と不在を示すもので、ここに蓑笠がかけてあったら在庵、なければ外出中というしるしであるが、今は落柿舎の象徴として常にある。


嵯峨野に庵を・・・・落柿舎(らくししゃ)は元禄の俳人向井去来(きょらい)の遺跡である。去来は芭蕉の門人、庭の柿 を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている。

十輪寺(なりひら寺)

2009-07-12 13:14:25 | 京都
在原 業平の墓石

伊勢物語は最後に彼の辞世の歌を記す

「ついに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを」

紀貫之の古今和歌集仮名序は彼の歌を評して
「情感があり過ぎて、それを表現する言葉が足らず、しぼんだ花が、色はあせたのに香りだけが残っているようだ」と述べ、その香気と風趣にあふれる叙情性を讃えている。

行平鍋(ゆきひらなべ)は在原業平の兄で 、 行平は須磨に身を置いていたとき、ひらったい形の鍋を使って、海女に塩焼きをさせたとの言い伝えから、その名前がついたと言われています



十輪寺(じゅうりんじ・通称なりひら寺)

2009-07-05 19:54:39 | 京都
通称 業平(なりひら)寺と云われ知られている平安のイケメン在原業平の晩年の閑

居跡、京に初めて都を置かれた天台宗の古刹現在も殆ど平日は訪れる人も無く寂びれ

た十輪寺(じゅうりんじ)だが!!