京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

広隆寺・弥勒菩薩半跏像

2015-03-18 14:36:33 | 京都

広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。













京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある
広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方『書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

秦 河勝(はた の かわかつ、生没年不詳)
秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人であり、朝鮮半島を経由し日本に渡来した。葛野郡(かどののこおり、現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。

この寺の創建にかかわる逸話が『日本書紀』に記されている。603年(推古11)11月聖徳太子は群臣を前にして、「私は尊い仏像を持っている。だれかこの仏を祀るものはいないか」と尋ねられた。そのとき秦河勝(はたのかわかつ)が「私が祀りましょう」と名乗りで、仏像を拝領した。そして、その仏像を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺である、というのだ。836年(承和3)作成の『広隆寺縁起』は、別の創建伝承を伝えている。あるとき聖徳太子は秦河勝に次のような話をした。「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香りに満ちた桂(かつら)の林の中に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。枯れ木からは大光明が放ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」。すると、河勝は「その場所は我々が住む葛野(かどの)です」と答え、その場所へ聖徳太子を案内した。そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が説法しているように見えた。そこで、仮宮殿を造って楓野(かえでの)別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡寺を建立させた。楓野別宮は桂宮院のことであり、現在の建物は鎌倉時代の再建だが、国宝建造物として広隆寺の奥に建っている。

『広隆寺縁起』は、蜂岡寺はもともと葛野郡九条川原里・同荒見社里にあったが、それを現在の地に移したと伝える。京都市北区白梅町にある北野廃寺が蜂岡寺の旧地であるとする説がある。しかし、二つの寺から出土する創生期の瓦の様相が異なっており、7世紀前半に別の寺として成立していた。
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広隆寺・ 八角円堂・霊宝殿

2015-03-17 15:03:12 | 京都
八角円堂(鎌倉時代)
建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。正確な建造年は不明であるが、建長3年(1251年)、中観上人澄禅による当堂建立のための勧進帳がある堂内の八角形の厨子も堂と同時代のもので、国宝の附(つけたり)として指定されている。











霊宝殿 - 仏像を中心とした広隆寺の文化財を収蔵展示する施設で、1982年の建設である3躰の真ん中は千手観音坐像。1012年(平安時代中期)の像内銘を有し。国宝の弥勒菩薩像2体、十二神将像などはここに安置されている飛鳥、天平、貞観、藤原、鎌倉の時代を代表する仏像が安置 ・・・西隣の旧霊宝殿は1922年、聖徳太子1,300年忌を期に建設されたもので、現在は公開されていない。
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広隆寺 ( 京都三大奇祭)

2015-03-16 17:20:50 | 京都
広隆寺(太秦)の牛祭(10月現在中止)不定期
太子像を安置した上宮王院(しようくうおういん)(太子堂)や桂宮院(けいくういん)の八角円堂が太子信仰の中心となり,当寺にちなむ種々の太子の伝承が生まれ,また足利将軍家歴代の保護も続いた。なお,有名な〈太秦の牛祭〉は,当寺の伽藍神である大酒(おおさけ)神社の祭礼で,毎年10月12日の夜に境内で行われる。当寺の僧侶5人が異形の面をつけ,そのうち1人は摩?羅神(まだらじん)となって牛に乗って境内を一巡し,仮金堂の前の祭壇に登って奇妙な祭文を読みあげ,終わると堂の中に駆け込んでこの祭りは終わる。



今宮やすらい祭4月第二日曜日)



鞍馬の火祭10月22日

京都三大奇祭は000年前からある広隆寺(牛祭)・今宮神社(やすらい祭・)鞍馬寺の(火祭)

今宮やすらい祭4月第二日曜日
「やすらい祭」は、桜の散る季節に花の霊を鎮め、疫病を払おうとする古くからの祭です。。桜や椿で飾った花笠と鬼たちに扮した行列が太鼓やお囃子とともに踊り歩きます。1000年以上守られ続けた祭は、国指定重要無形民俗文化財になっています。
鞍馬の火祭10月22日
京都鞍馬にある由岐神社の例祭「鞍馬の火祭」は、大小の松明を担いだ人々と、その炎に浮かび上がる神輿の練り歩きに熱狂する京都有数の奇祭・火祭です。その始まりは平安時代の天慶年間(10世紀)に、都の北方の守護として、また当時頻発した大地震や争いなど相次ぐ世情不安を沈めるために、朱雀天皇の案により鞍馬に遷された。
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広隆寺

2015-03-15 14:55:00 | 京都




秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像。
桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂。10月の‘牛祭’は京都三大奇祭の一つ。真言宗。
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無鄰菴(むりんあん)

2015-03-12 14:25:23 | 京都








鄰菴(むりんあん)は元老・山縣有朋の別邸で七代目小川治兵衛の作庭。東山山麓の南禅寺下 河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動きがあった。
東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的
日本庭園の嚆矢とも言えるものであった洋館の2階の間で開かれた「無鄰菴会議」は有名である 琵琶湖疏水は日本初の水力発電(蹴上発電所)の電気は日本第一号の電車(市電)を走らせ、京の
町に明るさと活気をもたらした、又この界隈の別荘、平安神宮、円山公園一帯に引き込まれ琵琶湖 の水は数々の名庭を生み、時の人々の心をいやし、都が東に行った寂しさを癒した。
無鄰菴は昭和16年(1941年)に京都市に寄贈され、現在、京都市が管理、公開しています。
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無鄰菴(むりんあん) 、

2015-03-11 19:16:25 | 京都
三角の敷地と感じさせない池泉廻遊式庭園












三角にしか敷地が取れない地に山県有朋が設計して、七代目植治(小川治兵衛)に作らせたもので。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的日本庭園の嚆矢とも言えるものであった
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無鄰菴(むりんあん) 、

2015-03-10 10:54:44 | お出かけ

           明治31年の建立で、明治36年(1903)に無鄰菴会議










東山山麓の南禅寺一帯の山縣有朋の別邸・日露戦争開戦の会議を行った菴「無鄰菴会議」
「無鄰菴会議」
1903年(明治36年)元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎 という時の政権を担う重鎮4人によって、日露開戦を巡る重要な会議が無鄰菴洋館の2階の間で開 かれたこの会議の後日本は翌年2月には日露戦争開戦に突入した。

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