京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

三十三間堂

2012-01-09 21:09:28 | お出かけ
湛慶作





京都東山、蓮華王院。三十三間堂の名で知られるこの仏堂は、後白河上皇(在院期間中、34回と最多の熊野御幸をした上皇)が1164年、自らの離宮・法住寺殿の敷地内に一宇の仏堂を建立し、 1001体の千手観音像を安置したのを始まりとします。 造営には平清盛が当たり、この功により清盛は播磨守となりました。
俗に三十三間堂と称しますが、それは、本堂の内陣の柱間が33あることによるもので、また33という数字は観音菩薩が33もの姿に身を変えて人を救うという信仰によるものだということです。この三十三間堂で、「柳のお加持」という法要が行われています。正月に汲んだ初水を霊木とされる柳の枝で参拝者にそそいで加持する頭痛封じの法要です。
この法要は後白河上皇の頭痛平癒にあやかったものなのですが、ここにも熊野が絡んできます。後白河上皇は頭痛に悩まされていた。そこで熊野で祈願したところ、お告げがあった。
「上皇の前世は熊野にあった蓮華坊という僧侶であった。仏道修行の功徳によって今世、天子の位につかれるくらい高貴の方に生まれてきたが、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいる。
その髑髏を貫いて柳の木が生えていて、風が吹くと柳の木が揺れて髑髏に触れ、上皇の頭が痛むのだ」という。
そこで、川を調べさせたところ、髑髏が見つかり、その髑髏を三十三間堂の千手観音の1体の尊像に塗り込め、さらにその柳の木を伐って京へ運び、三十三間堂の梁に使ったところ、上皇の頭痛は平癒したという。蓮華王院の名は前世の蓮華坊の名をとって付けられた。
岩田川。今の富田(とんだ)川の滝尻(和歌山県西牟婁郡中辺路町)辺りから下流は岩田川と呼ばれ詣の重要な垢離場(こりば)のひとつでした。この川を1度でも渡れば、今までの罪業がこと、熊野ごとく消えると信じられていた聖なる川。この川を徒渉し、滝尻王子に参拝。京から熊野を目指して歩いて きた人々にとって、滝尻からが熊野の霊域の始まりでした。
仏教では柳は一切樹木の王、仏に供える最高の聖木とされているそうですが、実際、柳には鎮痛作用があり、解熱鎮痛薬であるアスピリンは柳から作られたものなのだそうです。
 
三十三間堂の棟木の伝説は、さまざまに脚色され、哀愁物語があり!!
三重県南牟婁郡紀和町楊枝に楊枝薬師堂という小さなお堂がありますが、そこにはこんな伝説が・・・悪人達の讒言により命を落とした横曾根光当(よこそねみつまさ)の子、平太郎は、母とともに京から熊野の楊枝の里に落ちのび、二人、侘びしい暮らしを続けていた。
楊枝の里の柳の巨樹の下で騒ぎが起こった。狩りに来た武士の放った鷹が柳の高い梢に足緒をからめて動けなくなってしまったのである。主の武士は、家来に命じて助けようとしたが、その柳の木は あまりにも高く、誰にも登ることができない。主は怒って、その柳の木を伐ってしまうよう命じた。
そんなとき、平太郎がそこを通りかかった。平太郎は武士から弓矢を借りると、梢めがけて射放った。
矢は枝にからまっている 足緒に見事、命中。鷹は無事に柳の枝から逃れることができ、柳の木も伐れられずに済んだ。
その数日後、平太郎は柳の巨樹の下で一人の美しい娘に出会う。娘の名はお柳。やがて二人は夫婦となる。二人の間には男の子が生まれ、緑丸(みどりまる)と名付けられる。平太郎は、美しい妻と愛らしい子、そして老母との4人で、貧しいけれども、幸せな日々を送った。
それから何年かのちのこと。後白河法皇の発願で京に三十三間堂を建てることになり、その棟木に楊枝の里の柳の巨樹が使われることになった。
柳の木が伐られる当日の早朝、夜が白みはじめたころ、まだ平太郎も老母も緑丸も眠っており、起きているのはお柳だけであった。お柳は、突然の激痛に呻いた。お柳は、平太郎に命を救われたその柳の巨樹の精であったのだ。
お柳は、我が身に打ち込まれる斧の激痛に呻き、よろめきながら、眠っている平太郎や緑丸らに我が身の上を語り、別れを告げた。
夢うつつにお柳の末期の声を聞いた平太郎と老母は、すぐに目覚め、お柳のあとを追おうとしたが、路上には柳の葉が舞い散っているばかりである。緑丸は母の姿を求めて泣く。柳の巨樹は伐り倒されてしまった。
柳の木は新宮の浜まで運ばれることになった。ところが、平太郎の家の前まで来たとき、動きが止まってしまう。大勢の人がどんなに力一杯、押しても引いても、柳 の木は全く動かない。
そのとき、緑丸を連れた平太郎がやってきて、お柳の次第を役人に打ち明ける。この柳の木が自分の妻で、緑丸の母親であること、母子の情断ち切り難く、別れを惜しんでいること。
平太郎は、緑丸に音度を取らせて、自分達に木を引かせてもらえるように申し出た。緑丸を柳の木にまたがせ、音頭を取らせて引くと、今までビクともしなかった柳の木は緑丸を乗せて滑るように進んだ。こうして、平太郎・緑丸の親子の手により、柳の木は無事に運ばれ、三十三間堂も立派に完成したのであった。
 
1001体の千手観音像が祀られている蓮華王院三十三間堂東面して、南北にのびるお堂内陣の
柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十
三身にもとづく数を表しています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、湛慶以下多くの仏師によって作られた。中央坐像の左右両翼の
十級の階段上に各五十体ずつ、合計千体が並んでいる。像高は1.65m前後、頭上に十一面と四十二の手を持つ。
千体千手観音像の手前に横一列に立つ二十八部衆の中に、鎌倉復興期の作とされる国宝の風神像・雷神像も、堂内の左右の端に安置されている。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達や緒形光琳『風神雷神図屏風』のモデルになって親しまれている。
大部分は鎌倉復興期の作だが、建長元年(1249)の火災の際、救い出された平安期の像も124体含れる。また、この他に室町時代に追加された像が1体だけあるという。
平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は200数10体に作者銘があり、湛慶を初めとする当時の主要な仏師たちが総出で造像に当ったことがわかる。
 
「33」は観音に縁のある数字で、花山天皇が出家のち熊野那智山から西国三十三の観音霊場観音霊場『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。



三十三間堂

2012-01-06 15:54:11 | お出かけ


大部分は鎌倉復興期の作だが、建長元年(1249)の火災の際、救い出された平安期の像も124体含れる。また、その他に室町時代に追加された像が1体だけあるという。
平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は200数10体に作者銘があり、湛慶(運慶の嫡男・運慶、快慶とならぶ)を初めとする当時の主要な仏師たちが総出で造像に当ったことがわかって居る。


国宝の風神像・雷神像は俵屋宗達や緒形光琳『風神雷神図屏風』のモデルになった。



三十三間堂

2012-01-04 13:48:56 | お出かけ
三十三間堂で宮本武蔵が吉岡伝七郎と決闘(兄の仇討)したっていうのは吉川英治の創作実際の決闘場所は京都洛外としか伝えられていませんが吉岡清十郎が武蔵に破れた
最終的には一乗寺下り松で一族滅とあるが、現在も{染司 よしおか}として伝統工芸として吉岡健在・・・・武蔵敗れたり


新成人の日に振り袖に白いたすきを結んだ女性が静寂の中で凛々しくも華麗に通し矢!!

通し矢の始まりは平安時代とされ、江戸時代には堂の軒下約120メートルで貞享3年(1688)には紀伊藩の和佐大八郎が8132本射通して、現在でもこれが最高記録

三十三間堂

2012-01-03 14:41:21 | お出かけ




847年前の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成した入母屋(いりもや)造りの見事な本
堂は、南北に120メートル続いており、木造建築では世界一の長さを誇ります。(地上16メートル
、奥行き22メートル)三十三間堂」の「間」は、『柱と柱の間』の数であり、長さを表わしている
わけではありません。
最近出来た外壁の様に本堂も朱色であぜやかだった。
世界で一番大きい木造建築[東大寺]
世界で一番古い木造建築[法隆寺]