京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

龍馬とお竜の新婚旅行

2009-10-18 10:55:42 | お出かけ
新婚旅行で坂本竜馬とお竜(おりょう)がが立ち寄った露天風呂 寺田屋でお龍は風呂から裸のまま2階へ階段を駆け上がり危機を知らせた。龍馬は主に銃で反撃。左手の親指を負傷した、西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に潜伏する。 西郷隆盛や家老の小松帯刀(たてわき)たちが、薩長同盟のあと寺田屋で襲われてケガした龍馬に保養してもらおうと招待する。 塩浸温泉を訪れ10日ほど滞在し寺田屋で受けた 傷を癒したといわれています「龍馬手帖摘要」谷間に龍馬も入ったという今は使われていない2.3人入れる露天風呂が当時を忍ば せている日本で始めて新婚旅行をした、坂本竜馬とお竜(おりょう)が立ち寄ったところで有名である。 お竜の生涯 龍馬は慶応元(1865)年9月9日、乙女とおやべ宛てに長文の手紙を書いている。禁門の変が 起き、京都は焼かれ弟妹は四散、売られようとした妹を救出するお竜の雄婦ぶりを描き、 「右女ハまことにおもしろき女」「私のあよふき時よくすくい候事どもあり」「名はお竜と申、私し ニにており候」と知らせ、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候」と乙女を持ちあげて帯や着物を つかわして下さい、とねだっている。慶応2(1868)年1月、薩長同盟成立後に起きた伏見寺田 屋事件では、入浴中のお竜は風呂から飛び出して注進し、薩摩屋敷にも急を知らせるなど、 龍馬の危機を救う働きしている。 美人で花を生け香をきき茶の湯を致す教養を持ち、気丈な男勝りの京女は、海援隊士らに 「姉さん」と呼ばれたが、土佐藩大監察佐々木高行は日記に「有名ナル美人ノ事ナレ共、賢婦 人ヤ否ヤハ知ラズ、善悪共ニ為シ兼ネル様ニ思ヒタリ」と表している。 龍馬の没後しばらくは、三吉慎蔵の世話になり、明治元年、龍馬の高知の実家に迎えられた。 だた、一年ほどで京都に戻り、龍馬の墓のかたわらに庵室を結んだ。お竜が土佐を去るとき、 たくさんあった龍馬からの手紙は、この手紙は人に見せたくないからと、すっかり焼いてしまっ たようだ。 やがて西郷らを頼って東京に出、明治8年に旧知の大道商人西村松兵衛と再婚し、西村つる と名乗り、晩年は横須賀三浦郡豊島村の観念寺裏長屋で夫とくらし、貧窮の中で、明治39 (1906)年に没している。享年66歳。墓は(龍馬の有志人々により)神奈川県横須賀市大津3 丁目信楽寺(しんぎょうじ)門前に「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。

龍馬ゆかりの温泉 平成21年3月31日をもって閉館・・・再生へ今年7月から解体・改修工事を実施。現在は立ち入り禁止だが、来年4月1日から日帰り入浴や足湯、龍馬関連資料が楽しめる公園に整備されるという。 NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放送が予定



龍馬の最期・近江屋

2009-10-17 15:30:40 | お出かけ
      京都・円山公園戦時中押収二度目像「坂本龍馬・中岡慎太郎」

京都・円山昭和15年頃の像龍馬は長身で慎太郎は150cm前後の平均的な身長であった、バランスがを取る為に座らせた又龍馬の左手の刀を見て下さい。

幕末の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺されたこの事件坂本龍馬の最期の近江屋の2階180メートルもない天井でなぜ刀を使わづピストルで応戦 しなかったのか???。
暗殺説には諸説があり、新選組局長近藤勇が原田佐之助に命令したとする説よりも、見廻組 実行説が有力に思えますが。
龍馬は慎太郎に息があることを確認し、ふたことみこと言葉を交わしますが、頭から血と脳漿が流れでているのを見て、「慎ノ字、おれは脳をやられている。もう、いかぬ」 と最後の言葉を発して前のめりにたおれたそうです。
慎太郎は、一時回復するかのように見えたということですが、二日後、飯を食べた後、眠るように逝ってしまいます。享年30歳。慎太郎は最期に『討たねばかくのごとく討たれる。諸君、奮励決起せよ』と言い、死ぬまでその主戦論を捨てませんでした。
明治3年になって函館戦争で降下した今井信郎が見廻組による龍馬暗殺を自供。自分は見張 り役だったと告白。また当日の2時頃、桂早之助らと近江屋へ龍馬を訪問したが不在だった為 (居たら襲撃するつもりだった)、東山の辺をうろつき時間をつぶしていたとも告白。
函館降下の今井信郎が伝馬町に入牢中、なぜか西郷は彼個人のために大層な助命運動をし それをかなえている。また、征韓論で敗れた西郷が鹿児島へ帰る途中、静岡にいる今井を訪 ねている。(但し、その時は留守で面会していない。)
何か裏のつながりがあったのではないかとする説と。現在でも、最も信憑性が高いとされてい る。なお京都の霊山歴史館には見廻組桂早之助が龍馬を斬ったとされる刀が存在する。
「薩長連合、大政奉還、あれはぜんぶ龍馬一人がやったことさ」と勝海舟に言わせた。
 

坂本龍馬襲撃事件(寺田屋)

2009-10-16 21:22:51 | お出かけ



その1
薩摩藩主の父・島津久光は幕府に攘夷を迫るため、家臣を率い京に上がった。藩の尊皇攘 夷派の中でも急進派の有馬新七らは、それに乗じて決起。久光は家臣の跳ね上がりを嫌い 同じく攘夷派だった奈良喜八郎らに同士打ちをさせた事件。
志士たちの動きは京都の薩摩藩邸につつぬけで。4月23日、襲撃計画を知った島津久光は、 鎮撫のため奈良原喜八郎ら8名を寺田屋に遣わしました。奈良原らは最初、説得を試みます が、有馬らが受け入れなかったので、上意討ちとなり、有馬ら7名が斬死しました。その他は 薩摩藩邸に拘留され、関白・所司代の襲撃は未然に防がれました。<志士詩歌>

その2
慶応2年1月23日(1866年3月8日)、宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないし暗殺しようとした事件、龍馬は同宿の養女・お龍の機転と護衛の三吉慎蔵の働きにより危うく回避した。

現在の寺田屋の建物には事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかし、これらの事件当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は当時の敷地の西隣に建てらたものである(明治38年(1905年)に登記されている)。特に湯殿がある部分は明治41年(1908年)に増築登記されたもので、当時のものではあり得ない(お龍はその2年前に病没)。
当時の建物の敷地は現在の建物の東隣にある、石碑や像などが建っていて寺田屋の庭のようになっている場所(京都市伏見区南浜町262番地)であるが、この土地は大正3年(1914年)に所有者(寺田屋主人とは血縁関係にない)から当時の京都府紀伊郡伏見町に寄付され、市町村合併を経て現在は京都市の市有地である。