京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

染殿地蔵

2008-10-26 20:43:23 | お出かけ
文徳天皇のお后、藤原明子が世継ぎ誕生を祈願をしたそして、満願の日だった。彼女には明らかに懐妊のしるしがあった。やがて十月十日、明子は玉のような男の子を生んだ。のちの、清和天皇である。これが縁で、のちの宮廷政治に藤原王国が築かれるようになった。
地蔵尊は、明子が染殿皇后と呼ばれたのにあやかって“染殿地蔵”と呼ばれるようになった。
染殿地蔵の地蔵堂はもと、この北にあった金蓮寺の塔頭、釈迦院の所有だったが、たびたびの兵火に焼かれ、いまの堂は維新前の“どんど焼け”で焼失した際、仮堂を建てたのがそのまま残ったのである。安産の霊験は広く全国に知られ、戌の日ともなれば、関東、四国あたりから、安産祈願の腹帯を授かりにくる人が絶えない、藤原明子が住んだ染殿は、現在、京都御苑の京都迎賓館の位置にあたります。

染殿地蔵

2008-10-23 21:44:01 | お出かけ
寂びれたお堂が、安産地蔵とあって、霊験あらたかな腹帯を受けにくる人も昔のままである。
お地蔵さんは秘仏とされ、堂内厨子に納められているが、弘法大師 空海の作京都で唯一の裸形立像高さ2mの裸形立像という。

染殿地蔵

2008-10-22 15:57:40 | お出かけ
明治5年(1872)明治天皇の東京遷都などにより沈滞した京都のムードを一掃するため、当時荒廃した寺院の建並ぶ寺町を切り開き一大娯楽街をつくった。名も寺町の古名・京極に対して新京極と名づけ、以来、京都庶民の憩いの町として繁栄をしたが近年は京都庶民と云うよりも修学旅行で賑わっている、新京極四条通りから”甘栗”林万昌堂と交番の間路地に入った突き当たり、染殿地蔵さんがそれである