文徳天皇のお后、藤原明子が世継ぎ誕生を祈願をしたそして、満願の日だった。彼女には明らかに懐妊のしるしがあった。やがて十月十日、明子は玉のような男の子を生んだ。のちの、清和天皇である。これが縁で、のちの宮廷政治に藤原王国が築かれるようになった。
地蔵尊は、明子が染殿皇后と呼ばれたのにあやかって“染殿地蔵”と呼ばれるようになった。
染殿地蔵の地蔵堂はもと、この北にあった金蓮寺の塔頭、釈迦院の所有だったが、たびたびの兵火に焼かれ、いまの堂は維新前の“どんど焼け”で焼失した際、仮堂を建てたのがそのまま残ったのである。安産の霊験は広く全国に知られ、戌の日ともなれば、関東、四国あたりから、安産祈願の腹帯を授かりにくる人が絶えない、藤原明子が住んだ染殿は、現在、京都御苑の京都迎賓館の位置にあたります。
地蔵尊は、明子が染殿皇后と呼ばれたのにあやかって“染殿地蔵”と呼ばれるようになった。
染殿地蔵の地蔵堂はもと、この北にあった金蓮寺の塔頭、釈迦院の所有だったが、たびたびの兵火に焼かれ、いまの堂は維新前の“どんど焼け”で焼失した際、仮堂を建てたのがそのまま残ったのである。安産の霊験は広く全国に知られ、戌の日ともなれば、関東、四国あたりから、安産祈願の腹帯を授かりにくる人が絶えない、藤原明子が住んだ染殿は、現在、京都御苑の京都迎賓館の位置にあたります。