京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

養源院

2016-10-23 12:03:26 | お出かけ








三十三間堂の東塀(朱塗り)の向かいに小さな山門と大きな立て札と天井の大文字・・養源院豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政、祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建した。浅井長政・久政は天正元年(1573年)、小谷城で自刃している。開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印である。その後、元和5年(1619年)火災により焼失。元和7年(1621年)、淀殿の妹である徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興された。以後、徳川氏の菩提所となった。当時の3代権力者による・・・豊臣家に建てられ、徳川家の菩提寺になるという、不思議な運命を背負うことになる。もと天台宗で第二次大戦後に浄土真宗遣迎院派に改宗した。
3つの家紋が並ぶ位牌には、豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った、東福門院(徳川秀忠の娘)の切なる気持ちが現れているのかもしれない。位牌をよく目を凝らして確認して、秘密や歴史的背景に思いを馳せてみる奇な運命。
鶯張廊下は有名な江戸初期の大工・彫刻師である左甚五郎が造ったものと伝わる多くの観光客の訪問で鳴いてくれなかった??!作庭は、父親が浅井家・豊臣家に仕えた小堀遠州守政である

俵屋宗達作の重要文化財があり、これも伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、杉戸の象や唐獅子や麟などを図案化した構図は、表現の奇抜さも知られている。襖絵・地着色松図着色杉戸絵(表獅子・裏波に麒麟図、表獅子・裏白象図)4枚(8面)、俵屋宗達筆扇絵職人として細々と絵を描き、本阿弥光悦にかわいがられてい俵屋宗達は、養源院に描いた杉戸絵で世に名を知らしめる。又三十三間堂で風神雷神を見てあの 「風神雷神図」二曲屏風を完成させた朝廷から「法橋」の位を与えられ、大絵師としての第一歩を踏み出すことになった。養源院の杉戸絵は、俵屋宗達の原点であり出世作だといえる

関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る。同様の血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもある。
 
特別な立場にあった江戸時代の養源院は、他の寺院とは異なり、超然としていた。一般の人は参拝できず、将軍家や大大名という、高貴な身分の人だけに参拝が許されていた。誰もが拝観できるようになったのは明治時代に入ってからのことである。  
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三船祭

2016-10-18 12:10:10 | お出かけ









三船祭は車折神社例祭の延長神事として、大堰川(桂川)で行われる三船祭(5月第3日曜)は、平安時代、第59代・宇多上皇の舟遊びに由来しているという。ただ、祭りは御座(ござ)船、龍頭船、鷁首(げきす)船、扇流し船など20数隻が出て、平安時代の王朝貴族の風情を再現する。三船(みふね)名称は、平安、鎌倉時代の第80代・白河天皇が、漢詩、和歌、
奏楽に長けたものを三隻の船に分乗させたことによる。
観光客が集まる渡月橋周辺で行われることもあり、京都で最も人気のある祭りのひとつ清原家の一族としては、平安時代の歌人・官人で十六歌仙の一人、清原元輔(908-990)その娘で女流作家、歌人として名高い『枕草子』の清少納言の登場船遊びを再現。一神社では資金難で続けて行くには援助が必要
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三船祭

2016-10-17 17:09:43 | お出かけ








三船祭では「枕草子」の作者・清少納言に扮した女性が扇流しも行い扇流しは室町幕府初代将軍・足利尊氏が天龍寺に参詣した際、お供の童子が誤って扇を落し、川面を流れる扇の優美さに風情を感じて由来する、その後尊氏が天龍寺を訪れる際には競って扇を川に流したと言われて三船祭の扇流しでは100本の扇子が大堰川に流されるそうです。なお三船祭では献茶が行われ、野点席も設けられます。
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三船祭

2016-10-15 10:01:00 | 国内旅行






平安時代初め嵯峨天皇が広沢の池で船中から月見を行ったのが起源天皇や室町幕府で広まった「三船祭」の名前の由来は、白川天皇が行幸の折に、「和歌」「漢詩」「奏楽」に20数隻を浮かべ、平安時代の船遊びを再現する。舟に乗せて御舟遊びをされたといわれていることから「三船」とされています。
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車折神社(くるまざき)

2016-10-14 13:45:08 | お出かけ









祭神:清原頼業(きよはらよりなり)
 
清原頼業公は平安時代後期の漢学者・儒学者で、天武天皇の皇子、舎
人親王の御子孫にあたり、一族 の中には三十六歌仙の一人である清原
元輔、その娘、清少納言らの名も見られる。
頼業公は大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代
無比といわれ、晩年には九条 兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から
「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた。
頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領
地であった現在の社地に葬 られ、廟が設けられた。やがて頼業公の法名
「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれた。
この寺は室町時代に至り足利尊氏により嵐山に天龍寺が創建されると、
その末寺となった。
社名の由来は、後嵯峨天皇(1242~1246)が牛車に乗って大堰川へ船
遊びに行かれる際、社に気付か ず社の前を通ろうとしたとき石に当たり
動かなく
なり、勢いよく引いたところ左右から出ている引棒 (轅:ながえ)が折れたこ
とによる。天皇は、気付かなかった非礼を詫び、車折大明神の神号と正一
位がおくられた 。
 
頼業(よりなり)から「金が寄り、商売が成り」とも云われ商売繁盛の神様
と栄え後に境内に芸能神社が出来当時映画の町大映・松竹・東映の芸
能関係者が訪れた2000枚以上奉納されており、著名人の物も多くある。
芸能神社
天宇受売命(あめのうずめのみこと)(芸能・芸術の祖神)が岩戸の前で大
いに演舞され、天照大御神の御神慮をひたすらにお慰め申されたところ、
大御神は再び御出現になり、この世は再び光を取り戻した
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車折神社(くるまざき)

2016-10-13 13:04:18 | 国内旅行






祭神:清原頼業(きよはらよりなり)平安時代後期の漢学者・儒学者で、天武天皇(飛鳥時代)
の皇子、舎人親王の御子孫にあたり名門で出ある。 金運、良縁、合格祈願のパワーストーンが
お守りになってる神社として紹介されている。
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車折神社(くるまざき)

2016-10-12 12:12:00 | お出かけ





{車折神社」の社名は、後嵯峨天皇が嵐山に遊行した際、社前で牛車の轅(ながえ)が折れ、動かなくなったことから、
ご神威を畏れ、門前右側の石を「車折石」(くるまざきいし)が結われ

車折神社(くるまざきじんじゃ)」は境内に「芸能神社」があり、芸能や芸術に関わる人達に崇められています。いわ
ば芸能人にとってのパワースポットとして、映画全盛期の時3社の映画の撮影所があり昔から知られていた有名人が多
数訪ている
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勧修寺

2016-10-11 12:00:56 | お出かけ





京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基(創立者)は
醍醐天皇開山(初代住職)は承俊、本尊は千手観音である。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院で
ある.。
山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続き、門跡寺院の格式を表している。境内東側には手
前から宸殿書院、五大堂、本堂などが建つ。境内西側は氷室池を中心とした庭園であり、池に面し
て楼閣風の観音堂(昭和初期の建立)が建つ。
孫胤子(インシ)が宇多天皇の女御、醍醐天皇の生母となったことに由来します。醍醐天皇は昌
泰3年(900年)、胤子の遺志により伽藍を創建し、勧修寺としたと伝えられます。
>『今昔物語集』(巻22第7)には次のような高藤と列子のロマンスが伝えられている。藤原北家
の流れを汲む鷹狩が趣味であった。ある時、鷹狩のため南山階(みなみやましな、京都市山科区)
に来ていた高藤は、雨宿りのためたまたま通りがかった宮道弥益の屋敷を訪れた。勧められるまま
に弥益の邸に1泊した高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、鷹狩から
帰らぬ息子を心配して待っていた、高藤の父・良門は激怒し、高藤が今後鷹狩に行くことを厳禁した
その後、高藤と列子は長らく音信不通であった。それから6年後、高藤はようやく列子と再会する。
列子には娘がいた。6年前、高藤との一夜の契りで宿した子であった。この娘こそが後に宇多天皇
の女御となり、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である

勧修寺境内からは東山と醍醐の山々が望め、それが庭の借景となってきました。しかし、昭和38年(
1963年)に開通した名神高速道路が敷地の北側から西側にかけてのすぐ脇を通ったために景観が損な
われたこの様な寺院良く全国で見かける勧修寺は紅葉時多数の人々で賑う。
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勧修寺

2016-10-10 11:54:11 | お出かけ







書院前庭は、平庭となっており、氷室池、借景としての山を望むことが出来る。また、ハイビャクシン、「臥竜の老梅」、
水戸光圀寄進と伝える石灯籠「勧修寺型灯籠」、徳川家から贈られた貝型手水鉢「半月水盤」どが配されている。水盤は、
書院の天井や障子に月を写す趣向になっていた。

名神高速道路が敷地の景観が損なわれ、騒音もひどくなり、そこで勧修寺ではモウソウチクで道路を隠すことに決め、
10年間をかけて0数十mmにわたって竹の林を造った
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勧修寺

2016-10-09 15:32:43 | お出かけ






勧修寺氷室園」庭園は、氷室(ひむろ)池を中心とした池泉舟遊式庭園となっている。
池越しに南に南大日山、東に醍醐の山を望む借景庭園であり、近景の平庭、中庭の庭園、
遠景の借景と三つの景観により構成されている。660㎡の広さがある池には、三つの中島
、緑鴨洲、集仙島、方壷島と白花渚が造られている。庭園は、平安時代の遺構とされ、
京都では最も古い形式を伝えている。ただ、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)
で失われ、江戸時代、貞享年間(1684-1688)に復元されたともいう。池では平安時代、
1月2日、池に張った氷を宮中に献上し、張った氷の厚さにより五穀豊穣を占ってい
たという。
 書院前庭は、平庭となっており、氷室池、借景としての山を望むことが出来る。また、
ハイビャクシン、「臥竜の老梅」、水戸光圀寄進と伝える石灯籠「勧修寺型灯籠」、
徳川家から贈られた貝型手水鉢「半月水盤」などが配されている。水盤は、書院の天井
や障子に月を写す趣向になっていた。

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