三十三間堂の東塀(朱塗り)の向かいに小さな山門と大きな立て札と天井の大文字・・養源院豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政、祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建した。浅井長政・久政は天正元年(1573年)、小谷城で自刃している。開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印である。その後、元和5年(1619年)火災により焼失。元和7年(1621年)、淀殿の妹である徳川秀忠の正室・崇源院(江)の願により再興された。以後、徳川氏の菩提所となった。当時の3代権力者による・・・豊臣家に建てられ、徳川家の菩提寺になるという、不思議な運命を背負うことになる。もと天台宗で第二次大戦後に浄土真宗遣迎院派に改宗した。
3つの家紋が並ぶ位牌には、豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った、東福門院(徳川秀忠の娘)の切なる気持ちが現れているのかもしれない。位牌をよく目を凝らして確認して、秘密や歴史的背景に思いを馳せてみる奇な運命。
鶯張廊下は有名な江戸初期の大工・彫刻師である左甚五郎が造ったものと伝わる多くの観光客の訪問で鳴いてくれなかった??!作庭は、父親が浅井家・豊臣家に仕えた小堀遠州守政である
俵屋宗達作の重要文化財があり、これも伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、杉戸の象や唐獅子や麟などを図案化した構図は、表現の奇抜さも知られている。襖絵・地着色松図着色杉戸絵(表獅子・裏波に麒麟図、表獅子・裏白象図)4枚(8面)、俵屋宗達筆扇絵職人として細々と絵を描き、本阿弥光悦にかわいがられてい俵屋宗達は、養源院に描いた杉戸絵で世に名を知らしめる。又三十三間堂で風神雷神を見てあの 「風神雷神図」二曲屏風を完成させた朝廷から「法橋」の位を与えられ、大絵師としての第一歩を踏み出すことになった。養源院の杉戸絵は、俵屋宗達の原点であり出世作だといえる
関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る。同様の血天井は宝泉院・正伝寺・源光庵にもある。
特別な立場にあった江戸時代の養源院は、他の寺院とは異なり、超然としていた。一般の人は参拝できず、将軍家や大大名という、高貴な身分の人だけに参拝が許されていた。誰もが拝観できるようになったのは明治時代に入ってからのことである。