京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

詩仙堂

2014-07-19 16:03:31 | お出かけ



当時最新の桂離宮を始め 敷石・灯籠 。飛石などの敷石模様が成されている











徳川家康が起源の圓光寺、石川丈山の草庵後の詩仙堂、芭蕉が訪れた記念の芭蕉庵がある金、 福寺桓武天皇が平安京の鬼門として不動産を安置したのがはじまりの狸谷山不動院など、又宮本 武蔵と吉岡一門一乗寺下がり松の決斗ゆかりの地...・・・・・・

かつては凹凸か(おうとつか:でごぼこの土地の上に建てた家の事)と言われたが、狩野探幽に 描かせた自分の肖像画など36人の詩人画を詩仙の間に掲げたことから詩仙堂と呼ばれ、小さな 山に迷い込んだような野趣溢れる庭が現れる静けさの中にししおどし(鹿威し)が響く幾度も来 ているが何故か心が和み満足して家路に着く

石川丈山は三河武士の一族で徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家に生まれた。一途な性格で 早く功を挙げたいと思い、大叔父のもとで武芸を学んだ。1598年(慶長3年)徳川家康の近侍となり、 その忠勤ぶりに信頼を寄せられた。・・・・・ 論功行賞どころか蟄居の身となった。平穏な時勢を悟り武士をやめて妙心寺に入った。
1617年(元和3年)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事し、儒学を学んだ。文武にす ぐれると評判になった丈山には各所から仕官の誘いが多かったものの、仕官するつもりはなかった。
しかし病気がちな母を養うために紀州(和歌山県)和歌山の浅野家に数ヶ月、また板倉重宗の勧め に従って安(広島県)広島藩の浅野家に13年ほど仕えた。母が亡くなると引退を願い、翌年強引 に退去し京に出て相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めた。
4年後、洛北のこの地に(詩仙堂)を1641年(寛永18年)に建てて終の棲家と定めた。この時、洛東 の隠者木下長嘯子(北政所の兄・木下家定の嫡男)の歌仙堂・洛翠庭園の画仙堂は京都・・・三仙堂 作庭に長じたとも言われ本願寺只穀邸(渉成園)や京都田辺の一休寺の庭園は石川丈山の手に なるものと伝えられている。 清貧を旨として学問に没頭し30数年を過ごし、90歳で死去した。
なお、鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗(松花弁当)と共に、幕府の意を受けて京中の監視 をしていたとの説もある。茶の道にも精通しており、煎茶の元祖であったとも いわれています。また、 松尾芭蕉にも少なからず影響うを与えた。
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