京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

晩秋の落柿舎

2009-12-29 14:59:10 | 京都




芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。
向井去来(きょらい)(1651~1704)は江戸時代の俳人、蕉門十哲の一人である。去来は27歳の時に隠士となり、35歳で嵯峨野に庵を構えた。39歳の秋頃から嵯峨の庵を「落柿舎」と呼ぶ。去来の『落柿舎の記』に、庭に柿の木が40本あり、その柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくした。
それが落柿舎の名の由来と書かれている。本庵前庭に安永元年(1772)に書かれた俳人井上重厚著
の「柿ぬしや梢はちかきあらし山 去来」という句碑等がある。元禄4年(1691)芭蕉は落柿舎に滞在し、有名な『嵯峨日記』が書かれる。去来は凡兆と二人で蕉風俳諧の白眉、俳諧の古今集と言われた『猿蓑』の編集をする。晩年『去来抄』を書き残し、蕉門の誉れ第一の俳人である。
芭蕉は滞在した元禄四年梅雨のじめじめした風景を思い起こさせる「五月雨を集めて早し最上川」梅雨の終わりの豪快さを詠んだのか
           五月雨や色紙へぎたる壁の跡
の句を残し、また嵯峨日記を記したのもこの落柿舎だと云います。
元禄七年(1694) 大阪十月十二日午後、病死。享年五十一歳。十四日、大津・膳所の義仲寺境にて 埋葬 された、葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼった。
             旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
芭蕉の先祖は浅井長政(お市の方)の家臣(無足人・半待半農)であった敗者の無残さを幼き頃より深い感銘を受けた芭蕉は源義経や義仲、斎藤別当実盛といった悲劇伝を残した武人や藤原実方などにとりわけ思いを 寄せ、「おくのほそ道」の旅中、これらの人物にゆかりのある土地を訪れて句を残している、又西行法 師と同じ道を旅をしている、西行はかつては北面の武士と云われ合い通じる物が合ったか?
義仲については寿永2年(1183年)4月に平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め
次の句を詠んでいる
            義仲の寝覚めの山か月悲し
都からみちのくへ左遷させられた歌人藤原実方の終焉の地・笠島では
             笠島はいづこ五月のぬかり道
義経が自害した土地を訪れて
              夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
越前を訪れて実盛の甲(かぶと)を見て
              むざんやな 甲の下の きりぎりす
白髪を染め、一人踏みとどまった最期の戦いの敵将が、3歳のときに命を救っ貰った木曾義仲 の恩人であった家臣に義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、 ついにその死が確認された時、かつての命の恩人を討取ってしまったことを知った義仲は、人 目もはばからず涙にむせんだという。
 

芭蕉忍者(隠密)説…伊賀の里の出身者であり、歩く速度が異様に速く、5ヶ月間の旅の旅費は?
各地で句会に出席して歩く旅は忍者の格好の隠れ蓑であり訪れる土地は外様大名の領地が多かっ たと指摘されている『おくのほそ道』の内容に不自然な点があることから、伊達氏の仙台藩の動向を 調べる任務を負っていたのではと一部で指摘されている。出発前は「松島の月が楽しみ」と言ってい るのに、いざ松島に着くと一句も詠まずに一泊で素通りし、なぜか須賀川では7泊、黒羽では13泊 もしている。そもそも江戸を出る時から、同行人の曾良の日記「3月20日出発」と、芭蕉の「27日
出発」でズレている。こうした両者の記録違いは約80ヶ所もあるという。芭蕉の任務が諸藩の情報 収集であれば長旅の連続も理解できる。だがこれらは取るに足らないことだ!!!・・・


晩秋の落柿舎

2009-12-27 15:32:44 | 京都


落柿舎の入口には常に蓑(みの)と笠(かさ)がかけてある。これは本来庵主の在庵と不在を示すもので、ここに蓑笠がかけてあったら在庵、なければ外出中というしるしであるが、今は落柿舎の象徴として常にある。


嵯峨野に庵を・・・・落柿舎(らくししゃ)は元禄の俳人向井去来(きょらい)の遺跡である。去来は芭蕉の門人、庭の柿 を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれている。