石峰寺は、禅宗の寺院で黄檗宗を開いた隠元の孫弟子に当たる、黄檗
宗六世千呆禅師によって、正徳三(1713)年に創建されました
寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、晩年に10年間伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職と協力して制作したもので、「若冲五百羅漢」としていまも親しまれている。石仏は、薄いレリーフである長年の風雨で風化した事に一掃の煩悩を感じさせるまた観音堂の格天井には若冲が天井
画を描いた。
しかしこれらの絵は明治期はじめ、廃仏毀釈の嵐のなかで処分され、今は信行寺(左京区)に「花卉図」などが現存している自宅は天明大火事で無くなる同時代に円山応挙は豪商三井家が応挙の主要なパトロンであったしかし画は若冲が現在 存在感を与えている様に感じる。
石峰寺は伊藤若冲が晩年隠棲者として庵を結んだお寺で初めは春教(しゅんきょう)、のちは斗米庵(とべいあん)、米斗翁(とべいおう)名乗り画の代償に米一 斗を頂いた援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。ただし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。若冲が、寛政12年90日に85歳で生涯を閉じたのもこのお寺である。
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真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、天台宗の寺院で通称・真如堂(しんにょどう永観2年(984年)、比叡山の僧である戒算が夢告により、比叡山行堂の本尊阿弥陀如来を安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)
正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。
しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失したその後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年(1693年)、現在の場所に再建された本尊の阿弥陀如来は「頷き阿弥陀」とも呼ばれており、円仁(慈覚大師860年)が「修行者を守護して下され」と祈ると首を横に振り、「衆生、特に女性をお救い下され」と祈ると頷いた、という伝説がある
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善気山萬無教寺と号する浄土宗系の単立寺院である。
鎌倉時代の初め、法然上人が弟子の住連、安楽とともに、阿弥陀仏を昼夜に6回拝む六時礼讃を勤めた草庵で、寛永年間(1624~44)ほとんど廃絶していたが、延宝8年(1680)に知恩院の第38世萬無心阿(ばんぶしんあ)上人と弟子の忍澂(にんちょう)和尚が念仏道場として再興した。
本堂には恵心僧都作の阿弥陀如来坐像と法然上人自作本尊を安置し直壇には毎朝25の生花が散華される。
(昭和28)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている通常伽藍内は非公開である伽藍は年二回(4月1日~4月7日と11月1日~11月7日)一般公開されます。 作家谷崎潤一郎や九鬼周造、河上肇ら多くの文化人著名な方のお墓が多い。
砂地を固めてその上に模様が描かれる白砂壇は、水を表現していて、その間を通ることで心が清められると言われている。境内の庭園は無料です
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平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時
代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山
寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。
平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教によ
る加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対
して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った
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平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時
代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山
寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。
平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教によ
る加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対
して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った
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「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて
位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域
(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総
称である。
日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越え
る寺社で構成されていたと記されている