京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

石峰寺

2018-06-19 14:21:24 | 国内旅行









石峰寺は、禅宗の寺院で黄檗宗を開いた隠元の孫弟子に当たる、黄檗
宗六世千呆禅師によって、正徳三(1713)年に創建されました

寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、晩年に10年間伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職と協力して制作したもので、「若冲五百羅漢」としていまも親しまれている。石仏は、薄いレリーフである長年の風雨で風化した事に一掃の煩悩を感じさせるまた観音堂の格天井には若冲が天井
画を描いた。
しかしこれらの絵は明治期はじめ、廃仏毀釈の嵐のなかで処分され、今は信行寺(左京区)に「花卉図」などが現存している自宅は天明大火事で無くなる同時代に円山応挙は豪商三井家が応挙の主要なパトロンであったしかし画は若冲が現在 存在感を与えている様に感じる。
石峰寺は伊藤若冲が晩年隠棲者として庵を結んだお寺で初めは春教(しゅんきょう)、のちは斗米庵(とべいあん)、米斗翁(とべいおう)名乗り画の代償に米一 斗を頂いた援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。ただし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。若冲が、寛政12年90日に85歳で生涯を閉じたのもこのお寺である。


真如堂

2018-06-04 21:05:45 | 国内旅行







真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、天台宗の寺院で通称・真如堂(しんにょどう永観2年(984年)、比叡山の僧である戒算が夢告により、比叡山行堂の本尊阿弥陀如来を安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)
正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。
しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失したその後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年(1693年)、現在の場所に再建された本尊の阿弥陀如来は「頷き阿弥陀」とも呼ばれており、円仁(慈覚大師860年)が「修行者を守護して下され」と祈ると首を横に振り、「衆生、特に女性をお救い下され」と祈ると頷いた、という伝説がある



法然院

2018-02-26 13:55:59 | 国内旅行










善気山萬無教寺と号する浄土宗系の単立寺院である。
鎌倉時代の初め、法然上人が弟子の住連、安楽とともに、阿弥陀仏を昼夜に6回拝む六時礼讃を勤めた草庵で、寛永年間(1624~44)ほとんど廃絶していたが、延宝8年(1680)に知恩院の第38世萬無心阿(ばんぶしんあ)上人と弟子の忍澂(にんちょう)和尚が念仏道場として再興した。
本堂には恵心僧都作の阿弥陀如来坐像と法然上人自作本尊を安置し直壇には毎朝25の生花が散華される。
(昭和28)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている通常伽藍内は非公開である伽藍は年二回(4月1日~4月7日と11月1日~11月7日)一般公開されます。 作家谷崎潤一郎や九鬼周造、河上肇ら多くの文化人著名な方のお墓が多い。
砂地を固めてその上に模様が描かれる白砂壇は、水を表現していて、その間を通ることで心が清められると言われている。境内の庭園は無料です

延暦寺

2018-02-19 11:48:00 | 国内旅行
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平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時
代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山
寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。
平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教によ
る加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対
して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った


延暦寺

2018-02-18 11:00:21 | 国内旅行







「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて
位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域
(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総
称である。
日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越え
る寺社で構成されていたと記されている

延暦寺

2018-02-17 13:40:35 | 国内旅行






浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖
道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多く
が若い日に比叡山で修行していることから「日本仏教の母山」とも称されている。
1994年に、世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
 
足利義比叡山と対立した教有力僧を誘い出し斬首した僧侶たちは、根本中堂
に立てこもり火を放って焼身自殺した
戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう願うが断固拒
否された為焼き討ちした故に建造物重要文化財とまり



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知恩院

2018-02-13 10:55:45 | 国内旅行








知恩院の鐘は高さ3.3メートル、口径2.8メートル、重さ約70トン。京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ日本三大梵鐘として知られている

除夜の鐘試し撞きが12月27日 14:00~から除夜の鐘は親綱1人・子綱16人の17人で撞き、京都の冬の風物詩となっています。

嵐山法輪寺

2017-01-09 11:46:41 | 国内旅行






狛犬さんが牛と虎





寺伝によれば、和銅6年(713年)、行基が元明天皇の勅願により、五穀 豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺(かどのいでら)として建立したとさ れ


「古事記」「日本書紀」の応神天皇の章にも天皇のおよろこびと国讃めの お歌が記されており、行基菩薩を開基和銅6年(713年)とし以後歴代天皇
の勅願所であり勤操大徳8(ごんぞうたいとく)弘法大師の恩師、弘法大師 興業大師、明恵上人、日蓮上人を始め各宗の祖師方はここに参篭さんろう して、大きな覚知さとりの霊験を受けられることになるのであります。

清少納言の『枕草子』では、京都の代表的な寺院として挙げられ、本尊のご 利益は『今昔物語』にも描かれています古くは、天皇家や貴族などの限られ た人々しか参拝出来無かったが江戸時代中期頃庶民も参拝も出来る様に なったが応仁の乱により罹災し、幕末、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤 御門の変)により、再度罹災している。・・・・日本三大虚空蔵と称される一つです。

え年13歳になった男女が知恵を授かり、健康を願って参拝に訪れます。 参拝後から渡月橋を渡り終えるまで決して後ろを向いてはいけないと言い伝
えられています。「後ろを振り向く事によっていただいてきた知恵が本堂に帰 ってしまう」と言われています。
清和天皇が数え年十三歳になった折、成人の証として法輪寺で勅願法要を催した、古刹(名刹)でるが応仁の乱や江戸中期や元治の禁門の変によ る火災で失ってしまつた後に再建されたが縮小された

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三船祭

2016-10-15 10:01:00 | 国内旅行






平安時代初め嵯峨天皇が広沢の池で船中から月見を行ったのが起源天皇や室町幕府で広まった「三船祭」の名前の由来は、白川天皇が行幸の折に、「和歌」「漢詩」「奏楽」に20数隻を浮かべ、平安時代の船遊びを再現する。舟に乗せて御舟遊びをされたといわれていることから「三船」とされています。
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車折神社(くるまざき)

2016-10-13 13:04:18 | 国内旅行






祭神:清原頼業(きよはらよりなり)平安時代後期の漢学者・儒学者で、天武天皇(飛鳥時代)
の皇子、舎人親王の御子孫にあたり名門で出ある。 金運、良縁、合格祈願のパワーストーンが
お守りになってる神社として紹介されている。
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