京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

蛤御門の変(禁門の変)4

2010-01-31 10:43:24 | お出かけ
蛤御門の変時公家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討ち死にしたとも伝えられて居る、御所周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められ、大小200もの屋敷がたったが、多くの公家達もやがて東京に移住した。

①長州藩家老、福原越後が伏見方面から御所
②真木和泉守、久坂玄瑞が、南西の大山崎から堺町御門
③西の嵯峨方面からは、家老国司信濃、来島又兵衛が蛤御門と中立売り御へ・・・長州軍兵力は、総力3000人
戦死者
[長州軍]・・・265名
[幕府軍]会津藩・・60名越前藩・・15名彦根藩・・9名薩摩藩・・8名桑名藩・・3名淀藩・・2名合計・・・97名



攘夷派の公家たちは排除され長州藩兵に守られの三条実美ら七卿落ちの図

「振りしく雨の絶え間なく 涙に袖の濡れ果てて これより海山、浅茅が原 」・・・・久坂玄瑞


蛤御門の変(禁門の変)3

2010-01-30 18:50:50 | お出かけ
蛤御門の変(元治元年7月19日)の直前まで、長州軍約500人(家老国司信濃、来島又兵衛)が屯営した嵯峨天龍寺に陣を敷き、血気にはやる兵士が柱に試し切りした跡がこの傷で多くの刀痕が残された。商家(山中油店)にも刀痕「逃亡する長州兵の刀傷」「暴挙」を残した。

逃亡する途中山中油店で刀痕を残し天龍寺へ仁和寺街道を西進し山陽街道を南下し大山崎で久坂玄瑞隊と合流


余談
薩摩藩は、長州軍を駐留させたとの理由で天龍寺に砲火を浴びせようとするが管長滴水禅師は、総門前の大砲に立ちはだかり、「全山を焼くならまず自分を打ち殺してからにせよ」と言う。
薩摩は、「それでは大義名分が立たない。ただ空砲のみを撃てばよい」と名分をつけるが、実際は、実弾を放ち全山ことごとく焼亡する。禅師は開山の木像を背負い付近の竹藪に難を避けた薩摩の砲火で天龍寺八度目の焼亡。「元天龍寺管長関牧翁著」


蛤御門の変(禁門の変)1

2010-01-24 11:28:04 | お出かけ

京都御苑の9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたこ とから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」・・・・禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりご もんのへん])1864年8月20日(元治元年7月1日)長州藩と幕府軍の激戦であった。

「天皇に弓ひく者」(長州藩)ということで門扉(右)には銃弾の跡が保存された。

油小路七条の変・新選組

2010-01-21 12:09:12 | お出かけ
御陵衛士の墓所(元新選組隊士)「戒光寺御陵衛士墓所」正面左から毛内・伊東・藤堂・服部の墓碑

伊東と藤堂・服部・毛内の遺体はまとめて七条油小路辻に放置され、残党をおびきよせるために晒された。西本願寺侍臣や泉涌寺塔中戒光寺長老が埋葬させてほしいと頼んだが、聞き入れられなかった・・・。四遺体は数日間晒された後、新選組菩提寺の光縁寺に葬られた。彼らの遺体は、鳥羽伏見の戦いで新選組が退京した後、生き残りの衛士7名は騎乗、その他150人ばかりが野辺送りをしました。(泉涌寺の文書には7名が騎乗・葬儀には300人ほど集まったと記されているそうです)。その費用は新政府参与の役所から出された同志の手で戒光寺に改葬された。

泉涌寺は四条天皇以来14代の天皇陵・孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀陵墓がある境内の塔頭寺院(戒光寺)


[高台寺党と油小路の変]

新選組の中にあって、近藤勇・土方歳三派と伊東甲子太郎・山南敬助派に別れ、のちに幕府が新選組を幕臣に取り立てようとしたので伊東甲子太郎達は勤皇派であった為、別の組織を作ろうとしました慶応2年12月25日(1867年1月30日)孝明天皇が崩御し、伊東は朝廷より尊皇大儀のために孝明天皇の御陵を警備するという名目で禁裏御陵衛士を拝命し、高台寺の塔頭月真院に最後の屯所を置いたため、後世、「高台寺党」とも呼ばれました。
しかし慶応3年11月18日(1867年12月13日)伊東は酩酊して帰営中、待ち伏せの新選組隊士数名に襲われ七条油小路にて横死しました。享年32歳でした。
その後、伊東の死を聞いた御陵衛士は騒然となり、七条小路に彼の遺体を引き取りに来ますが、待ち伏せの新選組数十名に包囲され、藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物の3名が討死しました。
『戒光寺』筆記より引用

油小路七条の変・新選組

2010-01-19 19:23:16 | お出かけ



新選組によって暗殺された伊東甲子太郎の屍は、絶命した本光寺から油小路七条へ運ばれて放置された。
新井忠雄、阿部十郎、内海次郎が不在(幸運?)でしたが、知らせを聞きつけ、伊東の遺骸を引き取りに来た遺体を駕籠に収容しようとし た鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納道之助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、藤堂平 助の7人を新選組が包囲。激闘が行われました。鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納道之助、 富山弥兵衛、橋本皆助の5人は包囲を破り脱出しましたが、服部武雄、毛内有之助、藤堂 平助の3人は踏みとどまって討死しました。

「油小路で闘死した3名の衛士の遺体状況」

藤堂平助 油小路南西手に倒れおり候・・・傷は両足、横腹2ヶ所、面上鼻より口へかけ深さ2寸ほど、長さ7寸ばかり。刀を握り候まま果ており候。
近藤らと上京し、斎藤一と並んで新選組最年少幹部となりました。当初は近藤の「四天王」に数えられた、旧友達(永倉・斎藤)は剣を交える事を避けたが、子母澤寛の『新選組始末記』

毛内監物 油小路通七条少し上ル東側に倒れおり候・・傷は書き尽しがたし。五体離れ離れに相なり、実に目もあてられぬさまに御座候。かたわらに刀の折れ候ままこれ捨ておかれあり、脇差を握り候まま果ており候。

服部三郎兵衛(武雄) 同所辻北東手に倒れおり候・・傷は背中数ヶ所。これは倒れた候ところを散々に斬りつけ候おもむきにて、傷の数分からず(数えきれず?)。うつむけに倒れおり候を翌日あおむけ候ところ、腕先・三ヶ所、股足・四~五ヶ所、かかと一ヶ所、胴腹一ヶ所。流血おびただしき。
(『鳥取藩慶応丁卯筆記』より作成)

事件当時(旧暦の18日)は、月明かりで家屋の二階から手に取るように見えたという、多くの目撃者(町人)は「散々に斬り合っていたが、八人のうち負傷した二人を三人で介抱しながら逃げ去り、後に三人が踏みとどまった。中に両刀使いの者がいて、襲撃者(新撰組)の方が八、九人も手負いとなったが、遂には刀が折れたところへ総掛りで斃した。」とあるが、両刀使いの者が服部武雄である。



油小路七条の変・新選組

2010-01-17 13:20:47 | お出かけ



伊東は醒ヶ井木津屋橋の近藤の妾宅に招かれ、ほろ酔い加減で帰る夜道を隊士に斬られた この場所で刺殺しされた。「伊東甲子太郎が、瀕死の重傷を負いながら、新撰組の追っ手から逃れてきて、本光寺の門前に有った門派石にもたれかかって、『王事に尽くさんが為に投げ出した命なれど、もはや命運尽きたるは残念至極。 新選賊!』と、言って絶命した。
慶応三年(1867)十一月十八日・享年32歳又三日前に坂本竜馬(32歳)が近江屋で刺客に襲われ絶命この知らせを聞いた伊藤一派は、直ちに駆け付けたが、待ち伏 せしていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた・・・世にこれを「油小路七条の変 」新選組が京を去る一ヶ月 半前の出来事。

本願寺・太鼓楼

2010-01-11 14:26:14 | 京都


新選組は、池田屋騒動(1864年)以降隊士が増え、壬生の屯所では狭くなった事もあり、翌年屯所を 壬生から西本願寺に移し、境内に新選組本陣の看板を揚げ北東にあった北集会所(現在の参拝会 館)と太鼓楼を使用。
本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士達が 何かにつけて本願寺を頼りにしていたため、新選組は本願寺の中に本拠を移すことによって一石二 鳥の効果をねらった。
新選組は、境内で大砲の空砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、乱暴を繰り返したため参拝 の門信徒や僧侶らを震撼させる日々が続いた、何だかの圧力で南約1キロの地(不動堂村)に最後 の屯所を置く、坂本竜馬暗殺の3日後に”油小路の変”近藤は同志の離脱に困り果て参謀伊東(北辰 一刀流)を自分の妾宅に呼び出して酔わせ暗殺他に同志3名死・・・・・・旧来より時を報せたり、法要 の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築である。
結成時からの元隊士(島田魁)が明治維新後、本願寺の守衛を勤め、終生同士の供養のお念仏を喜 びなが番ら新選組隊員の生涯供養し太鼓番をしたという話が伝わっております明治33年3月20日73歳で死。「島田魁日記」新選組研究資料を残した、

京都では長州よりも新選組の方が人気が有る何故かと言えば 長州は”蛤御門(禁門)の変”で京都大火被害(人口37万人江戸は約倍)は、町数118、家屋42000、土蔵1500、寺社塔頭480、武家屋敷 600に及んだ。新選組よりも火を放った長州藩に怒りを隠せ無かった。

西本願寺・飛雲閣

2010-01-10 13:22:34 | 京都




西にのびる渡り廊下で結ばれている黄鶴台は、柿茸寄棟造りの床の高い建物で確か床は鴬張りで隠し廊下や部屋があつた様に記憶している、黄鶴台を降りれば別棟の浴室があり、西南隅に唐破風をもつ蒸風呂と鉄釜などがあります。蒸風呂は、上の窓や板戸の開閉により温度を調節するようになっています蒸風呂でさえ時の天下人何時命を狙われるか知れぬ為忍者屋敷の様なカラクリが面白かったのは記憶している年に一度公開があります。

「鶯張り]
人が床の板の上を歩く事によりきしみ音が鳴る様につくられた仕組みを鶯張りと言い、外部侵入者の危険探知の為に設けられたとされている、京都大学で調査されたが解明されず床の製作は難しいと言われている

西本願寺・飛雲閣 

2010-01-09 10:54:37 | お出かけ


お金を払うと云っても見学出来ないのは飛雲閣、京都の三閣」と称えられる飛雲閣(国宝、重文指定)がある、あとの「二閣」は金閣、銀閣だから、格も由緒も、建物や庭園の美しさも、並みのものではない何しろ桃山時代の数少ない”桃山時代の宝石箱”貴重品である、西本願寺の東南に建つ秀吉の聚楽第からの移築とも言われている。
飛雲閣の出入りは、舟で行うのが正式で、境内の東南隅にある滴翠園の池に建つ三層柿葺きの楼閣建築です。初層は唐破風と入母屋を左右に、二層は寄棟造りを中心に千鳥破風を配し、三層は宝形造りと実に変化に富んだ屋根を持ち、左右非対称ながら巧みな調和を持つ名建築として知られています。

西本願寺・世界遺産が無料で拝観出来る

2010-01-05 16:27:23 | 京都


西本願寺の南通中央に無料で近づいて見られる桃山時代の装飾彫刻が国宝即ち世界遺産がある。
本願寺の南にある唐門(日暮門)は、入母屋造りの前後に大唐破風を配した黒漆塗に彩色彫刻を施した豪華な四脚門で、日暮門(一日見ている間に日が暮れる)とも呼ばれて。








正面梁の間に麒麟と雲文、扉には牡丹に唐獅子の透かし彫りを入れ、両袖壁には中国の古伝説上の隠士の典型である許由(西側)と巣父(東側)の故事を彫刻して随所にほどこされた彫刻は極彩色に彩られ、彫が深く厚みがあり、精緻な飾金物とともに黒漆塗の柱や梁に映えて工芸品のような美しさを醸し出しています気に入れば時間無制限で観察できます、うむ!!徳川家光も負けづに陽明門(日暮門)を招いたのか・・・・
臨済宗大徳寺にもある聚楽第・日暮門も同じく彫刻や金具などは、多くの動植物(鯉・鶴・孔雀・麒麟・鳳凰・虎・獅子・椿・桃・松・竹・葡萄等)や自然物(雲・波・太陽)で構成されている。
聚楽第の面積は現在の京都御所 130,000m²に等しい



月読神社(安産石)

2010-01-03 19:45:32 | 京都


朝鮮半島に遠征し新羅を征討した英雄的支配者、神秘的霊威力を示す巫女といったものであった、 神功皇后が神の子応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産したものと伝えられ、舒明天皇の 時代に月読尊の神託によって当社に奉納された。
安産の霊験があるといわれている水害を避けるため斉衡(さいこう)3年(856)に現在地(西京区松室山 添町)へ移ったという。
江戸時代には衰退し松尾大社の摂社となっているが朝鮮半島に遠征し新羅を征討した、神功皇后と 奇妙な関係に思える。境内は、江戸時代に建てられた本殿、中心に御船社聖徳太子社などから構成 されている月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈 町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。
 
日本書紀によれば、(487年)阿閉臣事代が任那に遣わされる途中、壱岐で月讀尊の神託があった のでこれを天皇に奏上し月延石(安産石)もとは航海の大族である壱岐氏が壱岐島(長崎県)で 祀っていた航海の神。壱岐島から京都へ分祀されるにあたっては秦氏が関わった可能性が強いと いわれている。壱岐氏は航海の大族 で、秦氏の新羅からの渡来活動に協力した親縁。秦氏 が、 渡来人たちの渡日ルートである韓半島→対馬→壱岐→九州の航海安全を祈るため、月読神の勧請 に応えたとされる。

月読神社・月延石(安産石)

2010-01-02 14:57:10 | 京都


神功皇后が神の子応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産したものと伝えられ月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。

月読神社・月延石(安産石)

2010-01-01 13:37:17 | 京都




山をバツクに鄙びた神社が落西ある、昔海上民族である阿曇一族(漁業・航海の民)が淀川、桂川を遡行してこの地に入ったのではないかと推測される、舒明天皇の時代に月読尊の神託によって当社に奉納された。
安産の霊験があるといわれている水害を避けるため斉衡(さいこう)3年(856)に現在地(西京区松室山添町)へ移ったという。