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京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

真如堂

2018-06-05 21:02:49 | 京都






一条天皇の生母である藤原詮子(藤原道長の姉)によって興されれた寺院であり、安倍晴明とも非常にゆかりのある寺院である古刹な寺でもあり浄土宗発祥の地今は控えめに立つている三重塔

知恩院

2018-02-15 10:16:04 | 京都

 






比叡山を下り承安5年(1175年)、浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、
没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建
立されたのは、江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰
を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいん
さん」と呼ばれている室町幕府が行ったように二条城とともに京都におけ
る徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし
朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあった一心に弥陀(阿弥陀
如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は
旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった


建仁寺

2016-01-11 15:00:00 | 京都









800年前臨済宗の栄西(ようさい)によって開かれた京都で最古の禅寺である。
日本臨済宗の開祖で栄西禅師が、中国から茶種を持ち帰って日本において栽培を奨励し、喫茶の
法を普及された事はあまりにも有名です。日本の茶祖として尊崇されるのはそのためです、日本
曹洞宗の開祖である道元は栄西とは孫弟子の関係になる、栄西を非常に尊敬していた。
都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経過
して鎌倉幕府の援助で正治2年(1200年)に建立されたとして入寺し、この頃から純粋禅の寺院と
なる。1202(建仁2)年、明庵栄西が開山。日本最古の禅寺。

14 の塔頭が建ち並ぶ。 「風神雷神図」二曲屏風(俵屋宗達 作)、雲龍図(海北友松作)「桜花
図」「秋草図」屏風(狩野山楽 作)などが有名。 国宝に指定されている茶室「如庵」を境内正伝
永源院に再現建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永4年(1397年)、文明13年(1481年)など
たびたび火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、
桃山時代の池泉回遊式庭園で有名

浅井氏家臣・海北綱親(かいほう)の五男として海北 友松( ゆうしょう、天文2年(1533年) -
慶長20年6月2日(1615年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。海北派
の始祖。姓は源氏、友松は字。近江(現在の滋賀県)の湖北地区に生まれる。名ははじめ「友徳」
「紹益」とも「如切斎」「有景斎」などと号した。子に同じく絵師の海北友雪

俵屋宗達
「謎の絵師」生没年不詳 慶長から寛永年間に活動は、江戸時代初期の画家。当時絵屋と呼ばれた
絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していた
ようだ。同時代の仮名草子『竹斎』には、この頃京都で「俵屋」の扇がもてはやされたと記されて
いる 宗達は単なる扇絵職人ではなく福島正則の指示び従い平家納経の修復に関わり、3巻の表紙と
見返しの計6図を描いた皇室からも作画の依頼があった、大正2年(1913年)に「俵屋宗達記念会」
が開催されて小林古径や速水御舟ら若い画家たちに強い影響を与えた。
作風は「風神雷神図」のような装飾的大画面のほか、水墨画の作例もある。水墨の名作「蓮池水禽
(れんちすいきん)」は、生乾きの水墨にさらに濃淡の異なる墨を含ませて「にじみ」による偶然
効果 を狙った、いわゆる「たらしこみ」の技法が用いられている。
「たらしこみ」日本画の技法の一。色を塗って乾かないうちに他の色を垂らし、にじみの効果を生か
すもの。俵屋宗達の創案と考えられ、琳派(りんぱ)が多く用いた。
 
琳派(りんぱ)
琳派とは光琳派の先駆となる宗達は、桃山時代後期に興り近代まで活躍した、同傾向の表現手法
を用いる造形芸術上の流派、または美術家・工芸家らやその作品を指す名称である。本阿弥光悦
と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させ
た光琳が宗達を、抱一が光琳をそれぞれ傾倒し、その影響を受けている。狩野派や円山・四条派
といった他の江戸時代の流派は、模写を通じて直接師から画技を学んだのに対し、琳派では時間
や場所、身分が遠く離れた人々によって受け継がれたのは、他に類を見ない特色である俵屋宗達・
本阿弥光悦らを含めて「宗達光琳派」と呼んでいた江戸時代後期から明治時代にかけては評価が低
く、光琳の画の方が上だとみなされていた。そのため、明治期に代表作の松島図屏風を始め、多く
の作品が海外に流出した、ヨーロッパの印象派や現代の日本画、デザインにも大きな影響を与えて
いる。
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建仁寺

2016-01-09 12:11:52 | 京都




北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂・東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。大正年間に現在地に移築された。













平清盛の長男で重盛の館門の遺構とされる勅使門として移築された

健仁寺の栄西禅師(1141~1215)が河原院(源融邸遺跡、河原町五条(鴨川)あたり)の鐘を引き
上げたところ。流れついた鐘は重くて、なかなか上げられ無く、禅師は人夫に、「”栄西長首座
(えいさいちょうすざ}と声をかけよ。鐘は上がろう」と、命じた、人夫はいわれたとうり、かけ
声をかけると、鐘は軽々と上がった。”エッサ・ヨッサ”のかけ声は、この”
栄西長首座”が、なまったと云われる栄西禅師の茶は自動販売機でもよいが、”エッサ・ヨッサ”の
かけ声は不景気を飛ばす声にしたいものです。
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建仁寺

2016-01-05 13:37:24 | 京都










京童からは「東福寺の伽藍面」「妙心寺の算盤面」「建仁寺の学問面」などと皮肉られた建仁寺を開いた栄西上人は、当時旧勢力(天台宗 ・真言宗 )の反対などで京都では活動が制限されてしまい、最初に禅寺を開いたのは、九州~鎌倉であった応仁の乱による焼失以後たび重なる火災等で創建当時の建物は残っていない。

随心院

2016-01-02 20:27:16 | 京都










弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正の開基
隨心院が所在する小野は小野氏の一族が栄えたところである近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で遣隋使となった小野妹子をはじめ小野 篁(おの の たかむら篁の孫で小野道風、真言宗小野流発祥の地となる。この付近一帯はこの地方の勢力者、小野一族の土地小野氏一族が栄えた地である小町は現在の随心院の「小町化粧の井戸」付近に住んでいた。小町は小野良実の娘で宮中の後宮
に仕えていて、容姿端麗・超美人で和歌に優れた才能を発揮していたとか。小町のもとへ深草少将が百日通ったという伝説の舞台がここである。積もる思いを胸に秘めて訪ねてきた少将に対する小町は冷たかった。少将は『あなたの心が解けるまで、幾夜でも参ります。今日は第一夜です』と、その印として門前のカヤの実を採って渡した。通いつめて九十九夜、その日は雪の夜であった。門前にたどり着いた少将は疲れきって九十九個目のカヤの実を手にしたまれ、再起できなかったという。境内には深草少将をはじめ多くの男性から小町へ寄せられた文を埋めた文塚。小町が朝夕の化粧で使った化粧の井戸。文塚から少し北には寂しく1本のカヤの木があるが、少将が亡くなったことを知った小町が庭に植えたもの。かつては九十九本あったという。また、小町に寄せられた文を下張りにして造られたという「文張り地蔵菩薩像」と卒塔婆小町坐像(小町の晩年の姿を写したという)が、表書院と本堂の間の部屋に安置されてる。なお、随心院の祭事で有名「はねず踊り」は、小野小町を忍んで小町と深草少将の百夜通いをもとにした芸能である(毎年3月の最終土・日曜に催される

仁海僧正の開基逸話
一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいます。古くは牛皮山曼荼羅寺と称された勅命により、神泉苑に請雨の法を九回もおこない正とも称されました。
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隨心院

2016-01-01 20:16:58 | 京都
おめでとう御座います    今年も宜しく 仁明天皇に仕え、歌人としても有名な小野小町も「小野」の出で、宮中を退いて後は「小野」で過ごしたと言われています。隨心院 ... 小野小町生没年不詳)は、平安時代前期9世紀頃の女流歌人

天皇の妻は(順位)皇后・中宮・妃・女御・更 衣・女御までは殿舎が与えられたが、それよりも身分が低い更衣は部屋(局)を与えられてた。 その局を町といった。要するに小町の名は天皇の妻である更衣だった可能性が高い


随心院

2015-12-31 13:20:04 | 京都








応仁の乱で焼失し、1599年に九条家・二条家両公家主審の皇族が出家してここを住居としたことから、両家の門跡寺院として寄進再建された。
奥書院 舞楽図 江戸時代 狩野派 表玄関 杉戸 樹下双鶴図狩野派等 江戸時代作品が多くあり


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東福寺

2015-12-19 14:38:23 | 京都









伽藍を中心に25の塔頭寺院がある現存する禅寺の三門(国宝)としては日本最古のものである、開山堂金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並び「京の五閣」といわれている。
国宝三門や紅葉の名所で名高い東福寺。雪舟寺で知られる芬陀院には枯山水庭園と茶関白一条恵観ゆかりの茶室図南亭が。霊雲院で二階建て茶室観月亭から九山八海、臥雲の庭を観賞の後は、...

お風呂にあたる「浴室」とトイレの「東司(とうす」が、どちらも重要文化財に指定されている。
浴室 - 明治時代まで使われていた蒸し風呂。多い時には1000人が修行をしていた為入るときは敷物を持って行ったが、それが“風呂敷”の元になった。
日本最古のトイレ建築物東司 - 禅宗の修行では、トイレに行くのも修行の一環。トイレに行く時間も決まっていたため、一度にたくさんの人が使えるトイレが必要だった。座禅場の隣にある東司には、たくさんの壺が埋められており、修行僧たちがトイレとして使った。清潔を守るために、奥にはカマ
ドが設置されており、お湯を沸かして手などを洗ったという・・・60年前に見た時中はもっと雑然(物置場)としていたが重要文化財に指定されると整理整頓説明書付き

明暗寺・塔頭
時代劇でお馴染みの: 明暗尺八根本道場の明暗寺.山門をくぐると,アラハシラガゴケの白緑色のきめこまかなコケのじゅうたんの庭に立つことができる.自然に生え育ってできたコケ庭になったとわれる.小さな庭であるが東福寺の他の塔頭の庭と趣を異にしている特に紅葉の時期は大変な賑わい祭日・土日は避ける方が賢明・・・・堪能するには2.3日掛かる。
塔頭(たっちゅう)は、禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後門徒らが門派の独立した一寺塔

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東福寺

2015-12-18 16:03:22 | 京都







鎌倉時代中期摂政九条道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた東大寺・興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺。嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成しました足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至る
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東福寺

2015-12-13 21:14:55 | 京都






鎌倉時代中期摂政九条道家が東大寺・興福寺「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営「東」「福」「寺」名称される。
京童からは「東福寺の伽藍面」「妙心寺の算盤面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」『相国寺の声明(ショウミョウ)面 スピーカ 』と皮肉られた。
京都五山の第3位、大伽藍を有する寺であったため、「東福寺の伽藍面」
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東福寺・塔頭光明院

2015-12-11 16:56:36 | 京都




東福寺・塔頭光明院 現代の作庭家・ 重森三玲の庭で知られ1939年(昭和14年)の作品「虹の苔寺」「東山の苔寺」とも呼ばれる
苔庭の美しさから、「虹の苔寺」とも呼ばれる州浜は、平安時代の毛越寺(岩手県平泉)桂離宮また天龍寺の影響が見られるという。枯山水式に州浜を取り入れた初めての例とされる。
州浜に囲まれた白砂は海を表し、海洋を表した初例という。州浜の緩やかな曲線と法面には、古典的な手法である飛沫に見立てた栗石(丸い小石)が打ち込まれている
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東福寺・塔頭光明院

2015-12-10 20:39:15 | 京都
吉野窓越しに見る紅葉風景も風情ありよく計算された演質ここの見所となっている






東福寺の紅葉について

元は桜の名所として知られた地であったが、将軍足利義持が画僧・吉山明兆に望みを問うたところ「金銭的な望みはないが、境内に多くの桜を植えると後世に遊興の場になるため、それを禁じて欲しい」と言ったため、義持が桜の木を切ったとの話が伝えられている。桜は約600年前に伐採され、代わりに楓の木が植えられたという
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