京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

無鄰菴(むりんあん) 、

2015-03-10 10:54:44 | お出かけ

           明治31年の建立で、明治36年(1903)に無鄰菴会議










東山山麓の南禅寺一帯の山縣有朋の別邸・日露戦争開戦の会議を行った菴「無鄰菴会議」
「無鄰菴会議」
1903年(明治36年)元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎 という時の政権を担う重鎮4人によって、日露開戦を巡る重要な会議が無鄰菴洋館の2階の間で開 かれたこの会議の後日本は翌年2月には日露戦争開戦に突入した。

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南禅寺方丈庭園

2015-02-25 14:34:39 | お出かけ













歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれである。ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進した,天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆京都三大門の一つに数えられている他に知恩院三門、東本願寺御影堂門である。
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南禅寺方丈庭園

2015-02-23 16:32:02 | お出かけ







枯山水庭園の品格ある石庭

大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。 ... 大方丈の間取りは六間取で、南側が西から順に花鳥の間(西の間)、
御昼の間、麝香の間、北側が西から順に鶴の間、仏間( ... 南禅院方丈庭園.

後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂に由来する。
この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。
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梅小路蒸気機関車館

2015-02-15 17:16:53 | お出かけ
旧二条駅舎は、1904年(明治37年)に京都鉄道が本社社屋を兼ねて建設した日本現存最古の木造 2階建和風駅舎で、景観に配慮しながら平安神宮を模して造られた京都市有形文化財に指定歴史










京都駅から西へ1・5kに今も扇形車庫や転車台などの施設及び付随する線路、梅小路運転区が 記念館がある、施設の中央に位置している転車台(ターンテーブル)は太平洋戦争期間中に原子 爆弾の投下目標になっていたが(長崎・変更)!!。
旧二条駅舎を 移築・復元した「資料展示館」からなる にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へにほんブログ村にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へにほんブログ村

龍安寺 白銀(雪)の龍安寺

2015-02-10 10:25:28 | お出かけ







宝徳2年(1450)室町幕府官領細川勝元が、徳大寺家の別荘を譲り受けて寺地とし妙心寺の義天玄 承を開山として創建されたものであり、臨済宗妙心寺派に属し、禅苑の名刹である。 応仁の乱で焼失して、再興したが、火災で焼失したため西源院方丈を移築した。
方丈の前庭は枯山 水の庭として著名である。 庭内は一木一草も用いず、地表に白砂を敷き15個の自然石をはいする。その姿から「虎の子渡し」 の庭と云われ・・・・・・・・ 配置された15の石が東から7・5・3で構成されているので「七・五・三の庭」ともいわれる室町時代 末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものと伝えられる。 見る人によって自由な解釈や連想を欲しいままにさせるこの庭は禅の公案のようであり,見た目には すこぶる単純な構成であるがその中に秘められた魅力は大きく、岩とそれにまつわる苔、それらを取 り囲む白い砂に描かれた筋目が一層神秘的である柿葺屋根の新しさとの違和感も自然に思える。

応仁の乱
(1467年西陣(南朝)に山名宗全(天空の城)9万余、東陣(北朝)に細川勝元(細川護煕・元総理)十万余の軍勢11年間にわたる戦場と化した京の歴史的な最大の出来事だつた。
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白銀(雪)の龍安寺

2015-02-09 14:57:49 | お出かけ







土塀は、菜種油を練り込んだ土によって築かれている事から油土塀とも呼ばれている

妙心寺の義天和尚を開山とし禅寺に改めた。石庭として有名な方丈庭園(史跡・特別名勝)は三方を築地塀に囲まれた枯山水の平庭で「虎の児渡しの庭」とも呼ばれる。白砂に15個の石を配した名庭。方丈の東庭には龍安寺垣があり15個の石は、庭をどちらから眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えないように設計されているという

虎の児渡しの庭
虎は、3匹の子供がいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。
そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る。つまり、3匹の子虎を渡すのに3往復半する訳である。龍安寺の石庭はこの様子を表したものだという訳である。
南禅寺方丈庭園も同じである 
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白銀(雪)の龍安寺

2015-02-08 11:36:27 | お出かけ






座敷の中央辺りから石庭を見れば感無量だが!!

狩野派 狩野孝信・作
狩野永徳の次男で狩野光信の弟。息子は狩野探幽、狩野尚信、狩野安信。確証ある遺品は少ないが、時代の転換期にあって狩野派を支えた功労者といえる。
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雪化粧の渡月橋(嵐山)

2015-02-05 18:10:21 | お出かけ












嵐山の大堰川に架かるこの橋は嵐橋とも呼ばれ、古くは平安時代の始めの承和3年(836)に空海の弟子、道昌が大堰川を修築したおりに架橋されたものといわれています。渡月橋の呼称は、亀山上皇が曇りのない夜空に月がさながら橋を渡るようなさまをみて「渡月橋」と呼ばれている。
映画やテレビドラマの撮影で多用されていることもあり、観光地としての嵐山を象徴する建造物ともなっている。
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宇治・平等院

2015-01-09 19:36:32 | お出かけ
藤原400年の栄光の遺作や藤原文化







本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作である



宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏源融(みなもと の とおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元
年1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
平等院は父(道長)偲んで法成寺を範となった寺院でもあり世界遺産にも登録されている、仏師定朝(平安時代後期多)によってくの仏像に影響を与えた又10円玉や1万円札(裏面)でお馴染みの有難い寺院でもあり法成寺(廃絶)を想い興せる。
 
法成寺は寝殿造のような構造で池も ある。まず東の五大堂から入り、東橋を渡って中島、西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入る。釈迦の涅槃絵と同じように、頭北面西に寝る。九体の阿弥陀の手から九本の糸を引き、 それを握り
しめ、西方浄土を願いつつ往生した。九体の九は九つの世界の意、 南北朝初期にたびたび災難にあい、廃絶する現在は、石標が残るただし東北院(左京区浄土寺)のみあり。
 
栄花物語・寛治6年2月(1092年)には、阿弥陀堂、金堂、五大堂、薬師堂、釈迦堂、十齋堂、東北院、西北院などの様子が記載されている。
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宇治・平等院

2015-01-08 16:46:54 | お出かけ








平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。
宇治川の西岸にあった源重信の別荘をその夫人から藤原道長が譲り受け、その子頼通が永承7年(1052年)、寺に改めたもの創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
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詩仙堂

2014-07-19 16:03:31 | お出かけ



当時最新の桂離宮を始め 敷石・灯籠 。飛石などの敷石模様が成されている











徳川家康が起源の圓光寺、石川丈山の草庵後の詩仙堂、芭蕉が訪れた記念の芭蕉庵がある金、 福寺桓武天皇が平安京の鬼門として不動産を安置したのがはじまりの狸谷山不動院など、又宮本 武蔵と吉岡一門一乗寺下がり松の決斗ゆかりの地...・・・・・・

かつては凹凸か(おうとつか:でごぼこの土地の上に建てた家の事)と言われたが、狩野探幽に 描かせた自分の肖像画など36人の詩人画を詩仙の間に掲げたことから詩仙堂と呼ばれ、小さな 山に迷い込んだような野趣溢れる庭が現れる静けさの中にししおどし(鹿威し)が響く幾度も来 ているが何故か心が和み満足して家路に着く

石川丈山は三河武士の一族で徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家に生まれた。一途な性格で 早く功を挙げたいと思い、大叔父のもとで武芸を学んだ。1598年(慶長3年)徳川家康の近侍となり、 その忠勤ぶりに信頼を寄せられた。・・・・・ 論功行賞どころか蟄居の身となった。平穏な時勢を悟り武士をやめて妙心寺に入った。
1617年(元和3年)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事し、儒学を学んだ。文武にす ぐれると評判になった丈山には各所から仕官の誘いが多かったものの、仕官するつもりはなかった。
しかし病気がちな母を養うために紀州(和歌山県)和歌山の浅野家に数ヶ月、また板倉重宗の勧め に従って安(広島県)広島藩の浅野家に13年ほど仕えた。母が亡くなると引退を願い、翌年強引 に退去し京に出て相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めた。
4年後、洛北のこの地に(詩仙堂)を1641年(寛永18年)に建てて終の棲家と定めた。この時、洛東 の隠者木下長嘯子(北政所の兄・木下家定の嫡男)の歌仙堂・洛翠庭園の画仙堂は京都・・・三仙堂 作庭に長じたとも言われ本願寺只穀邸(渉成園)や京都田辺の一休寺の庭園は石川丈山の手に なるものと伝えられている。 清貧を旨として学問に没頭し30数年を過ごし、90歳で死去した。
なお、鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗(松花弁当)と共に、幕府の意を受けて京中の監視 をしていたとの説もある。茶の道にも精通しており、煎茶の元祖であったとも いわれています。また、 松尾芭蕉にも少なからず影響うを与えた。
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詩仙堂

2014-05-21 22:17:38 | お出かけ




石川丈山を知らなくてもしおどし(鹿威し)を知らない人は少ないでしょう。

石川丈山の草庵後の詩仙堂、芭蕉が訪れた記念の芭蕉庵がある金福寺、桓武天皇が平安京の鬼門として不動産を安置したのがはじまりの狸谷山不動院など、又宮本武蔵と吉岡一門一乗寺下がり松の決斗ゆかりの地...よく行く洛北地。

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