京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

智積院と長谷川等伯

2010-11-23 16:51:46 | お出かけ
[楓図]


[松に立葵図]


長男・久蔵の作とされる [桜図]

天文8年(1539-1610)、能登国七尾(現・石川県七尾市)に生まれる。 はじめ長谷川信春を名乗り仏画 などを描いていたが、のち30歳を過ぎて上洛。当時の主流であった狩野派に対して強烈なライバル意 識を持ち、独自の画風を確立。日蓮宗の熱心な信者であり、また千利休とも親交を持っていた。天正 18文禄3年(1593年)、画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた長男・久蔵に先立たれ後

智積院と長谷川等伯

2010-11-23 15:38:33 | お出かけ


等伯『楓図』(1593)54才作・千利休や跡継久蔵を亡くした・智積院



狩野永徳『檜図屏風』(1590)最晩年作・東京国立博物

真言宗智山派 総本山智積院と云えば、長谷川等伯で有名である、数々の伽藍と多くの貴重な文化遺 産があり。特に豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛児・鶴松の追善のために建立した祥雲寺の金碧障壁画
長谷川等伯(1539-1610)とその弟子達によって描かれた「楓図」「松に立葵図」や等伯の長男・久蔵の 作とされる「桜図」は、桃山時代を代表する障壁画である 大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のよに、庭園の池が書院の縁の下に入 り込んでいますその大書院より眺めることができる庭園は、四季折々の美しさで私たちの目と心を 楽しませてくれますが、特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぎ、毎年
多くの観光客が訪れます。「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅 寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時代に原形が造られ。その後、智積院になってからは、第 七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言われるようになった。
築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山を象って土地の高低を利用して築山を 造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています



長谷川等伯
天文8年(1539-1610)、能登国七尾(現・石川県七尾市)に生まれる。 はじめ長谷川信春を名乗り仏画 などを描いていたが、のち30歳を過ぎて上洛。時の主流であった狩野派に対して強烈なライバル意 識を持ち、独自の画風を確立。日蓮宗の熱心な信者であり、また千利休とも親交を持っていた。天正
18文禄3年(1593年)、画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた長男・久蔵に先立たれ(長谷川派の勢力伸 長を恐れた、狩野派による「暗殺」とも言われている)、晩年には事故により利き腕である右手の自由を 失うなど私生活は不幸であった。後に徳川家康の要請により江戸に下向するが、江戸到着後2日目に
して病死した等伯の没した翌年、次男宗宅も亡くなり、画壇のなかでの長谷川一門の命脈は尽きてし まいました。不運な生涯だった。・・・・・・