京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

青蓮院門跡寺院

2018-09-24 11:40:38 | 京都旅行






開基は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)である天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊を幾つも作りましたが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊鳥羽上皇の第七皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺してより後は、皇家や摂家の子弟が門主を務める格式高い寺院(門跡となった。山下へ移転した当初は現在地のやや北西にあたる三条白川の地にあったが、河川の氾濫を避けて鎌倉時代に高台の現在地へ移った

梶井(現在の三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり。国宝の青不動明王二童子像は平安仏画の最高傑作の一つ。境内には相阿弥作・築山泉水庭と小堀遠州作・霧島の庭が配され、紅葉の美しさは格別。夜はライトアップされ、見所の苔庭は一面の星空のように瞬き、人々を魅了する。仏国土を思せる庭園、御堂を堪能したい。飛地境内の将軍塚に大護摩堂の「青龍殿」が完成し、同所にて10月から12月まで開帳された。園城寺(三井寺)の黄不動、高野山明王院の赤不動とともに三不動と言われている。

芥川龍之介は室生犀星に宛てた手紙で、高台寺が一見の価値のあること、青蓮院も人はあまり行かないが「是非見るべ」などと書き送っている門前の大クスノキ(親鸞聖人の手植えと伝えられてる)

青蓮院門跡寺院

2018-09-23 11:32:09 | 京都旅行







夜はライトアップされ、見所の苔庭は一面の星空のように瞬き、




青蓮院門跡寺院

2018-09-22 20:49:53 | 京都旅行






梶井(現在の三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。

宝筐院

2018-09-22 14:27:53 | 京都旅行










決して大きくない寺内の境内・・・ 入口から門をくぐると混雑直線的な石畳の道があり、両側に紅葉のトンネルが続く。一面が黄金色や赤色の紅葉に包まれ石庭の回遊式庭園には風景は考えさせる。
庭園内には多くのモミジやドウダンツツジがあり晩秋初冬にはみごとな紅葉を見せる。特別公開4月、5月、10月、11月

南北朝時代敵味方に分かれた楠木正行四條畷の戦いに戦って討ち死し(23歳)敗北した後は、足利によってその首級を寺の敷地内に手厚く葬られた。 その正行の敵である足利義詮は、正行の

葬を知ると、「自分の逝去上桂三宮町後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」と遺言を残したと言われ、貞治5年(1367年)、彼の死後ほどなく、正行の墓(五輪石塔)の隣の墓(宝筐印塔)に葬られた。その後、8代将軍・足利義政の代に、その寺名は義詮の院号である宝筐院に改められたという。


宝筐院

2018-09-20 14:43:55 | 京都旅行






宝筐院(ほうきょういん)平安の末から鎌倉時代にかけては、数代にわたって皇族が入寺し、住持となり臨済宗の単立寺院。庭園内決して大きくは無いが春(若葉頃)と秋(紅葉頃)には多くのモミジやドウダンツツジがあり晩秋初冬にはみごとな紅葉を見せる古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎えて居る・・・・楠木正行と足利義詮の墓が仲良く並んで居る

石峰寺

2018-06-19 14:21:24 | 国内旅行









石峰寺は、禅宗の寺院で黄檗宗を開いた隠元の孫弟子に当たる、黄檗
宗六世千呆禅師によって、正徳三(1713)年に創建されました

寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、晩年に10年間伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職と協力して制作したもので、「若冲五百羅漢」としていまも親しまれている。石仏は、薄いレリーフである長年の風雨で風化した事に一掃の煩悩を感じさせるまた観音堂の格天井には若冲が天井
画を描いた。
しかしこれらの絵は明治期はじめ、廃仏毀釈の嵐のなかで処分され、今は信行寺(左京区)に「花卉図」などが現存している自宅は天明大火事で無くなる同時代に円山応挙は豪商三井家が応挙の主要なパトロンであったしかし画は若冲が現在 存在感を与えている様に感じる。
石峰寺は伊藤若冲が晩年隠棲者として庵を結んだお寺で初めは春教(しゅんきょう)、のちは斗米庵(とべいあん)、米斗翁(とべいおう)名乗り画の代償に米一 斗を頂いた援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。ただし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。若冲が、寛政12年90日に85歳で生涯を閉じたのもこのお寺である。


石峰寺

2018-06-17 11:13:13 | 国内旅行












怒った顔、泣いた顔、ほほ笑んだ顔――。風化して苔(こけ)むした石の表面に残る表情は豊かだ。竹林が風でざわめくたびに木漏れ日が揺れ、素朴な石仏たちの顔を彩る。京都市伏見区にある

五百羅漢とは、およそ五百人の「羅漢」と称されるインドの高僧集団のことで、お釈迦様がこの世を去られた後、宗派の統制を改めるために集まった高僧、いわゆるお釈迦様の弟子たちが500人いたことに由来しています。


石峰寺

2018-06-16 09:40:53 | 京都旅行








「円山派」応挙と同時代に生きた伊藤若冲が、生涯を閉じた寺85歳・・・・平成になつて世に知られる
寺の境内裏山にある五百羅漢の石像群は、伊藤若冲が下絵を描き、当寺の住職と協力して制作したもの「若冲五百羅漢」と言われている

大徳寺

2018-06-14 20:30:19 | 京都旅行






山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立されている
京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残している。なお、大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。
 
大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。また国宝の塔頭龍密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残る。このため京童から「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。
室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。二層の山門。
連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名づけられた。
利休の恩に報いるために寺は上層に雪駄を履いた利休の木像を安置したが、このため門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因となったと伝わる,、塔頭も非公開のところt多く京の寺院でも楽しみが少ない。非公開の三玄院は興味のある寺
 
京都五山の寺格
南禅寺 - 別格
天龍寺 - 第一位・相国寺  -  第二位・建仁寺 -第三位・東福寺第四位
・万寿寺(東福寺) - 第五位

足利義満の意向により、応永8年3月5日に相国寺を第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われたが、義満没後の応永17年2月28日に元に戻された。

今日では京都五山=京都の禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが京都五山あくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、大徳寺は同様理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している(詳しくは大徳寺の項目を参照)。また、妙心寺は大内義弘に肩入れしたことが原因で義満の怒りを買い、寺領すらも没収されていた。再興を果たすのは江戸時代からである。


大徳寺

2018-06-13 10:07:18 | 京都旅行











興臨院(こうりんいん)能登国の戦国大名・畠山や加賀百万石の基礎を築いた戦国大名・前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となる。

三玄院・天下を見る事無く去る者石田三成・浅野幸長・森忠政が建立。古田織部や石田三成の墓がある。古田織部好みの茶室「篁庵」がある。***非公開





大徳寺

2018-06-12 11:27:02 | 京都旅行








大徳寺本坊は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多い。一休宗純千利休・小堀遠州・石田三成・沢庵和尚等歴史に登場する人物
京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られた。



伏見稲荷大社

2018-06-09 16:08:22 | 京都旅行












"

京の年末年始風物詩と云えば知恩院の除夜の鐘明けて年始は伏見 稲荷初詣で始まり伏見稲荷

深草三郷の藤森神輿が伏見稲荷に続々集結してくる「ホイットー,ホイットー」の勇ましいかけ声と共に藤森神輿は伏見の稲荷神に「土地返せ!」と迫ってくる。
伏見稲荷の神官が藤森神社の神々を出迎え,供物を整えて「謝罪」・・・?伏見稲荷の地は本来は藤森神社の社域であった、伏見では今でもこんな伝承(でんしょう)が残っている藤森の神官に人間に化けたキツネが稲荷山の裾野を借りて稲を植えました其れが次第に殖え山の頂上にまで増えてしまい現代に至っている由縁である。
大化の改新」で蘇我氏の勢いが低下していく中、紀氏の勢いも当然下降線を辿る事になる。やがて、この一帯は秦氏の支配する所となり、かっては藤森神社の社域であった伏見山には稲荷神が勧請された。
藤森神社は社地をかすめ取られたわけである。秦氏に対する深草の先住者には荷田氏もいる。荷田氏は空海の実母の実家であり,東寺執行職の阿刀氏とも姻戚関係にある豪族である。事実,稲荷大社には荷田社があるし,代々伏見稲荷の宮司を継承してきた。伏見稲荷大社の御旅所も東寺にあり、歴史的には荷太夫(1105~1176)が稲荷社に「僕」として仕え,祈祷師的存在として活躍した。





伏見稲荷大社

2018-06-08 20:41:55 | 京都旅行















久々に行った大鳥居も本殿も見事な明るい朱色塗り変わりこの時期は少なく参拝者修学旅行生と海外の人々で賑って居いる京都駅からバスで十数分で行ける手軽さも人気を呼んでいる世界遺産を押しのけ3年連続伏見稲荷大社が1位になった


真如堂

2018-06-06 09:17:05 | 京都旅行







寺内の境内で一目につく祠がある
【殺生石】といえば、九尾の狐が退治された成れの果てあり、那須の地にあって絶えず毒煙を吐き続けたという、あの怪石中の怪石である。しかし、室町時代の頃にその祟りを鎮めるために玄翁和尚によって叩き割られた。そしてこの【殺生石】の破片は全国各地、北は福島から南は九州まで飛び散ったのだが、玄翁和尚はその残った破片の一部で【殺生石】* 今から1300ほど前、中国で白面金毛九尾の狐が美女に化け、時の皇帝をたぶらかし国を滅ぼそうとしたが正体 ...狐;;;;日本では神様の使者である





真如堂

2018-06-05 21:02:49 | 京都






一条天皇の生母である藤原詮子(藤原道長の姉)によって興されれた寺院であり、安倍晴明とも非常にゆかりのある寺院である古刹な寺でもあり浄土宗発祥の地今は控えめに立つている三重塔