京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

修身教科書(孝行)に記載された寺

2008-02-17 19:22:56 | お出かけ
かつて京の西の玄関口、丹波街道(山陰)と 西国街(山陽)交差する地点桂川島町、天下分 け目の山崎の合戦の為馴染みの土地から地の利を生かして向かった明智光秀・禁門の変 蛤御門の変)で御所に向かう久坂玄瑞まさに歴史街道いまでも田畑を背にして今時の寺 に変建して保育園の隣小さな真新しい山門(冷聲院)をくぐった左手に孝子儀兵衛の碑が。
冷聲院一帯は米を代々(皇籍・公家)に奉納していた、故に公家や皇籍に孝行な儀兵衛の 話しが鷹司家に伝わって、儀兵衛は御褒美を頂く。

戦前の教育を受けた人なら誰もが 知っている話し・・・・・・・・

冷聲院で配布しているパンフレット「孝子儀兵衛翁略伝」によれば!!
 
儀兵衛翁は、京都四条堀川西入紙屋市兵衛の子として享保九年五月に生れました。生後 まもなく川島村二丁縄手(今の粟田町)の農家、半右衛門の養子となりました。
養家は、少しの田畑もなく大変貧乏でした。七才の時、養母が以前乳母奉公していたこと のある北野上七軒富田屋に、母とともに奉公に出ましたが、十六才の時ある事情から母と 郷里の川島に帰って来ました。享保十八年儀兵衛十才の折養父の半右衛門が亡くなりまし た。それからというものは家計はだんだん苦しくなって来ました。儀兵衛は、農業の手伝、 油しぼり、荷持ち、駕篭かき、普請の手伝、小料理、襖の張り替え、小間使など仕事を選 ばず働いてわずかの賃金を得てやっと生計をたてていました。
毎日の食べ物にも困っていましたが、母には好きなものを差上げ、自分はこっそりゆるこ 飯又はゆるこの雑水を食べていましたが、それさえ食べられない時がたびたびありました。
[ゆるこ____くず米で牛馬のエサにする}
そんな時母がどうしたのと尋ねても、今日は知人の所でご馳走になりましたと答えて母を 安心させました。
儀兵衛は、毎朝早く起きて、母の食べ物、使い水等を用意して働きに出ていきました。母 は年老いて手足が痛むため髪ゆい、着物の着せかえまで儀兵衛がしました。
儀兵衛養子であることを母はかたくかくして、人にも実の子だといっていましたが、儀兵衛 三十才の頃親類の者から、「お前はだんだん貧乏になって、長年苦労して本当に気の毒だ。 京都には実の親もいるから、そこへ行けば世話もしてくれるだろう」と言われてはじめて養 子であることを知りましたが、儀兵衛は「私は今まで実の母と思って、わがままをいってき ました。それに実の子でない私を大切に育てていただいたご恩は本当に有難いと思います」 といったということです。
1770年(明和7年)鷹司家より御褒美を頂く
1772年(安永元年)10月(儀兵衛49才)養母(85才)没す
1779年(安永8年)10月5日儀兵衛(56才)没す

修身教科書(孝行)に記載された寺

2008-02-16 19:13:51 | お出かけ
小学修身教科書(第十課・孝行)に記載された。修身教科書は 第一課から二十七課で成り立つている、 他にも馴染みのある人物は第三課忠義・楠木正成 第八課倹約・上杉鷹山第十 六課 忍耐・コロンブス第十七課自信・吉田松陰第十八課主婦の務・松陰の母( 滝子)第二十一課 度量 西郷隆盛第二十二課信義 加藤清正第二十三課 誠実加藤清正等がある。

修身教科書(孝行)に記載された寺

2008-02-15 20:00:39 | お出かけ
GHQ(連合国軍総司令部)も当初、第四期までの修身教科書を肯定的に評価していたという研究があるが、昭和三十三年、「修身」に代わって「道徳の時間」が特設されたが、日本教職員組合(日教組)の反対闘争の標的にされたが今その教え子から槍玉にされる有様も皮肉なもの!!
子に対して、
●あなたは、近所の人にあいさつすることについて、どう思いますか。
●あなたは、人に親切にされた時、感謝の言葉を言うことについて、どう思いまか。
●あなたは、学校や社会のルールを守ることについて、どう思いますか。
●あなたは、自分の国を愛することについて、どう思いますか。
 保護者に対して、
●あなたは、子どもに髪の毛を染めさせないようにしていますか。
●あなたは、子どもに喫煙させないようにしていますか

修身教科書(孝行)に記載された寺

2008-02-14 19:29:03 | 京都
戦前の教育を受けた人なら誰もが知っている話し修身教科書・・・・・
大正7年には尋常小学校修身教科書に取上げられた。孝子儀兵衛の墓所がある冷聲院

昭和八年から十五年まで使われた第四期国定修身教科書の巻一(尋常小学校一年用)は目次で「過ちを隠すな」「うそを言うな」「思いやり」「親を大切に」など基本的な徳目を示し、本文で各徳目にふさわしい具体的な話を紹介

最近日々親殺し・子殺しの痛ましい報道される何か殺伐とした世の中益々深まる少子化問題も、日本のそう遠くはない未来にかかわる非常に重要な問題である!!。

酒呑童子の首塚

2008-02-02 20:26:08 | お出かけ
大枝の集落を抜けると、旧山陰街道は国道9号線と合流し、老ノ坂トンネルをくぐって亀岡市 へと通じますが、トンネルの手前の細い道(旧山陰道)をたどると、老ノ坂峠へ続く昼間でも 薄暗く人の往来も途絶えた所に酒呑童子の首を埋めたと伝えられる、首塚大明神が祀られ ています・・・・・・・酒呑童子を語れば諸説になりますから???
 
この話し平安時代、藤原道長摂関政治の頃の鬼・・・自己中心に考えると反するものは悪→ 鬼,京の都を襲っていた現状(悪政や疫病)が米国がイラクを襲ったように!!!
猛威をふるって人々を苦しめた疫病の神を、京の入り口で都の勇士が退治するという物語で あったのか?
当時丹波地方豪族は鉱山(鉄)をもち財力あり一説によれば華中・華南にいた海人族で青銅 を使い南方系髪が赤い大男の西洋人、血を飲んだというのはぶどう酒ではという説 、都に 来た時に接待に酒と遊女で持て成した中央政権とっては恐れる勢力ではなかったのか説。
治安三年(10239丹波の政治は良い政治とはいえず、その結果百姓達の反乱が相次いで いたようだ。丹波守藤原頼任の騎馬兵に追い散らされている等があった。
酒呑童子の云われについても、室町時代の「御伽草子」大江山絵詞→(酒呑童子)。
酒呑童子→(伊吹山絵詞・大江山絵詞)がある童子とは佛教を伝える子されていたのだが 雑役にこき使われる人「働子」が転じたとたとも言う、山中の〈捨て童子〉が「息を吹く」から→ 伊吹童子なんて混同も多く酒呑童子伝説成立している。
陰陽の安部晴明が祓いの祭り事などで裏鬼門西南(東北・比叡山には延暦寺が置かれ)に 置いたのでしょう又「老ノ坂」は「大枝坂」から云われている。
 
首塚大明神社務所の由緒書きには以下のように書かれている 
平安時代初期。(西暦八百年頃)丹波の国大江山に本拠を構えた酒呑童子が、今日の都へ 出て金銀財宝や婦女子をかどわかすなど、悪行の数々を行うので、人々の心に大きな不安 を与えていた。天子(天皇)は源頼光等四天王に命じ酒呑童子とその一族を征伐するよう じられた。
源頼光等は大江山の千丈ヶ嶽に分け入り、苦心の後 酒呑童子とその一族を征 伐し酒呑童子の首級を証拠に京の都へ帰る途中この老の坂で休憩したが、道端の子安の
地蔵尊が「鬼の首のような不浄なものは天使様のおられる都へ持ち行くことはならん」と云は れたが相模の国の足柄山で熊と相撲をとったという力持ちの坂田の金時が証拠の品だから 都へ持って行くと言って酒呑童子の首を持ち上げようと力んだが、ここまで持ってきた首が急 に持ち上がらなくなった。そこで一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて首塚をつくったと伝 えられている。酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔いこれからは首から 上に病をもつ人々を助けたい、と言い残したと伝えられ首塚大明神は首より上の病気に霊 験があらたかである。
 昭和61年3月 宗教法人 首塚大明神社務所