和泉式部に関白藤原道長が娘の上東門(じょうとうもん)院(藤原彰子(しょうし))に仕えていた和泉式部のために、法成寺(ほうじょうじ)東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる。当初、御所の東側(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫(はんらん)などにより一条小川(上京区)に移築再建され、更に天正(てしょう)年間(一五七三~一五九一)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された。
和泉式部は老後をこの庵に住み、 その死後、 法名の誠心院をとって寺名としたと伝えられている通称「和泉式部寺」と呼ばれる。
『和泉式部集』
ある人の、扇を取りて持給へりけるを御覧じて、
大殿、「誰がぞ」と問はせ給ひければ、
「それが」と聞え給ひければ、
取りて、「うかれ女の扇」と書きつけさせ給へるかたはらに
「越えもせむ 越さずもあらん 逢坂の
関守ならぬ 人なとがめそ」
和泉式部が「うかれ女」と認識され、評判の女とみなされていたとの査証としてあげられる歌であるが紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された『紫式部日記』
和泉式部は老後をこの庵に住み、 その死後、 法名の誠心院をとって寺名としたと伝えられている通称「和泉式部寺」と呼ばれる。
『和泉式部集』
ある人の、扇を取りて持給へりけるを御覧じて、
大殿、「誰がぞ」と問はせ給ひければ、
「それが」と聞え給ひければ、
取りて、「うかれ女の扇」と書きつけさせ給へるかたはらに
「越えもせむ 越さずもあらん 逢坂の
関守ならぬ 人なとがめそ」
和泉式部が「うかれ女」と認識され、評判の女とみなされていたとの査証としてあげられる歌であるが紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された『紫式部日記』