京風

そぞら歩きの千二百年の都のはんなり歴史街道と四季行事等

誠心院(和泉式部寺)

2010-02-27 15:13:01 | お出かけ
和泉式部に関白藤原道長が娘の上東門(じょうとうもん)院(藤原彰子(しょうし))に仕えていた和泉式部のために、法成寺(ほうじょうじ)東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる。当初、御所の東側(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫(はんらん)などにより一条小川(上京区)に移築再建され、更に天正(てしょう)年間(一五七三~一五九一)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された。
和泉式部は老後をこの庵に住み、 その死後、 法名の誠心院をとって寺名としたと伝えられている通称「和泉式部寺」と呼ばれる。

『和泉式部集』

   ある人の、扇を取りて持給へりけるを御覧じて、
   大殿、「誰がぞ」と問はせ給ひければ、
   「それが」と聞え給ひければ、
   取りて、「うかれ女の扇」と書きつけさせ給へるかたはらに

      「越えもせむ 越さずもあらん 逢坂の
                  関守ならぬ 人なとがめそ」
和泉式部が「うかれ女」と認識され、評判の女とみなされていたとの査証としてあげられる歌であるが紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された『紫式部日記』

誠心院(和泉式部寺)

2010-02-25 15:11:42 | お出かけ

正式名の「東北寺(とうぼくじ)誠心院(せいしんいん)」は、開山である女流歌人 和泉式部の法名「誠心院専意法尼」によるその奔放な生き方と華麗な歌の詠みぶりで強烈な光を放った歌人『和泉式部集』『和泉式部日記』その才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう今直多くの人々に感銘を与えている。

誓願寺(落語発祥の寺)

2010-02-21 11:08:27 | お出かけ



昔は六千坪を越える境内に七堂伽藍がそびえ、塔頭寺院十八ヶ寺を数える壮大なものであった。
この寺は歴史上有名な二人の女性作家が極楽往生している。
ひとりは清少納言。当寺で菩提心をおこして尼となり、本堂そばに庵室を結んだ。その後、 念仏して往生をとげたのである。
もうひとりは和泉式部
娘に先立たれ、その哀しみから世の無常を感じた式部は、播州の書写山へ高僧・性空上人を訪ね た。ところが、「京都八幡山の大菩薩に祈るべし」と言われ、岩清水八幡宮へ参って祈ると夢に老僧 が現れて「誓願寺で祈るべし」と告げられたのである。
そこで、当寺に48日間こもって一心に念仏をたなえたところ、今度は霊夢に老尼が現れて 「念仏をとなえれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあったという。式部は尼となって庵を結び、 ここでめでたく往生した。
この庵室が「誠心院」であり、今も新京極に現存している。
 
江戸時代の初期、この寺のお坊さんだった安楽庵策伝は、僧侶として布教に励むかたわら、文人 や茶人としての才にも優れていた時の京都所司代・板倉重宗の面前で数々の笑い話を語ったとい われ、江戸に伝わりさしずめ落語の生みの親といったところ『醒睡笑』八巻は後世に落語のタネ本 となり現在は芸能人で賑って居ますが、この寺は京の都より古く千三百年の歴史があります。

世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語つています。

誓願寺

2010-02-20 14:04:54 | お出かけ



誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も大変多く、ことに「清少納言」「和泉式部」「松の丸殿」といった女性たちからの深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称され、そのほかにも落語の祖と呼ばれる「策伝上人」や謡曲「誓願寺(世阿弥作)」に謡われるなど、落語発祥の寺、芸道上達の寺としても広く信仰を集めていた。
扇は現代でも日本舞踊から落語まで幅広く使われ、さらには平安時代の上流階級の女性たちの生活に欠かせないものであった。

報恩寺(撞(つ)かずの鐘)

2010-02-16 15:32:52 | お出かけ

鎌倉期も終わりのころ、壬生寺の近くに松並千歳という白拍子が一人の娘と住でいた。娘は照子 報恩寺には悲しい伝説が残る梵鐘がある。撞(つ)かずの鐘 この鐘は朝夕に撞かれ、一帯の織屋ではこの音で仕事を始め、そして終わってた。ある織屋の仲の悪い丁稚と織女が夕の鐘の数を言い争った。
本当は織女の9つが正解だったが、姑息な丁稚は寺男に頼み、自分が主張した8つの鐘をつかせた ため、織女は負けてしまった。 本来鐘は108煩悩を除滅するために撞くので、108の1/12である9が正しいのだ、織女は悲しさ と悔しさで鐘楼で首つり自殺をしてしまった。 それ以来この鐘をつくと不吉なことが起こるため、供養をし、朝夕撞くのをめ、除夜と大法要のみ に撞くことになった。 尚、この報恩寺の梵鐘は、平安時代鋳造の名鐘として重要文化財に指定されている。

門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。重文の梵鐘は平安 時代末期の作で撞かずの鐘という。客殿に黒田長政が死去した部屋もある。観世流家元歴代や、 志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。
建立:室町時代 前身は定かではないが、室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、 後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。天正年間(1573~92)現在 地に移った。


報恩寺(おかめ塚)

2010-02-14 18:32:01 | お出かけ




鎌倉時代の初め、西洞院一條上る辺りに洛中洛外に名の聞えた棟梁とその妻阿亀が住んでいました、本堂を造営しているとき棟梁の長井飛騨守高次その名棟梁が4本の柱の1本を誤って短くしてしまった。
進退極まり途方に暮れていた高次を見て、妻の「おかめ」が一計を案じ、ある提言をした。この着想により、見事に本堂を落成させることができたが、上棟式の前日に妻の「おかめ」は自殺してしまった。女の入れ知恵で棟梁の任を果たしたということが世間に漏れては夫の恥と考え、すべてを秘密にするため、というのが自殺の理由であった。高次は妻の心情にうたれ、上棟式には御幣におかめの面を飾り、冥福を祈ったおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により〝家宅の火災け〟家内安全と繁栄を祈って始められたものです。また、おかめの徳は〝災を転じて福となす〟というところから。建築成就工事安全、女一代厄難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として全国を風靡するところとっています。なお昭和五十四年の春有志により阿亀の大像が建立され福徳の像として祀られ〝おかめ信仰〟の輪が一層広がった。(おかめ塚由来より抜粋)

報恩寺(鳴虎)

2010-02-13 10:32:22 | お出かけ
虎年に吠える鳴虎(なきとら)の報恩寺といわれるこの寺は,中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)が描く猛虎の絵を豊臣秀吉の所望により聚楽第の床へ飾ったところ,夜中に虎の鳴き声が聞こえ,秀吉は一晩中安眠できませんでしたので,すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名になりました。この絵は寅年の正月三が日に限り公開されます 

日本には謎の鳥がいる。
正体はよく分からない。
中国から見れば「カモ」に見える。
米国から見れば「チキン」に見える。
欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
日本の有権者には「サギ」だと思われている。
オザワから見れば「オウム」のような存在。
でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。

それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え
身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒、
釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、
実際は単なる鵜飼いの「ウ」
私はあの鳥は日本の「ガン」だと思う。

「ツミ」ばかり作り「カッコウ」ばかり付け
「ペンギン」のようにつぱって居る
でもそんなお「フクロウ」持ちたいが、
「トキ」すでに遅し質金トリに追われ着たきり「スズメ」
不死鳥の如きに生きたやこの身

「政治と金の集中審議」

生まれて5ヶ月のヒョウ子を60爺がイジメテモ?? 

報恩寺

2010-02-12 10:51:52 | お出かけ


通称千本釈迦堂は用明天皇(聖徳太子の父)が勅願の道場として開創されたと伝えられるが、その後廃滅に帰していたのを藤原秀衡の孫、求法上人義空1227年(安貞1)という人によって再建された、数々の伝説のある寺である。

創建当初から千本釈迦堂の名で親しまれてきた。本堂(国宝)は、応仁の乱で諸堂が焼失したなかでも残った洛中最古の木造建造物。建造時に夫である棟梁のミスを助けたあと、秘密を守るため自刃した「おかめ伝説」が残り、境内にはおかめ塚やおかめ像がある又豊臣秀吉が恐れた掛軸がある霊宝館には快慶作の十大弟子立像(重要文化財)、定慶作の六観音像(重要文化財)、千手観音像(重要文化財)な
どを安置。12月7・8日の大根焚きは京都の冬の風物詩だ


御所 猿が辻の変

2010-02-06 11:00:43 | お出かけ

蛤御門をくぐって北東の方向に有る猿ケ辻

みどりの芝生と松、無数の木々が豊かな苑内に白い築地壁と御溝水(みかわみず)が折り目正し く取り巻く京都御所。紫寝殿をはじめ、多くの寝殿造りの建物が並び、千二百年前の平安京内裏 の清楚なたたづまいをいまに偲ばせる威容だ。春は葵祭り、秋は時代祭りの舞台、御苑は市民の 憩の広場として親しまれている。
この御所の、北東かどの築地築に少し欠けこんで居るところらがあって、その屋根下に一匹のサル がいる。
寛政2年(1790)、光格天皇が御所を再建された時、御所はもともと東同院土御門内裏といって里 内裏の一つ、南北朝時代に北朝の皇居となり両朝がいっしょうになってからは代々。天皇の御座所 となった。中世以来、兵乱で荒れるにまかせたが、のち、織田信長が修理、江戸期にはいって、天明の京都大火、(1788 年3月7日)ま た火災で無くなった。
光格天皇は、再建に当たって、一つの願いがあった。
「平安京造営時の内裏の古制に則って再建しようとした」 ところ、御所を取り巻く築地塀が、都の鬼門にあたるので困られた。 宮大工が木彫りの猿(日吉山王神社の神の使いといわれる)が鬼門を守るということで祀り、御所 は無事落成した。ところが、この猿が夜な夜な大声を上げては通行人に悪さをするので、金網を張 って閉じ込めてしまったという。人々は御所の北東角を猿ヶ辻とも呼んでいる事件が維新前夜の文 久三年(1863)猿が辻の変。

猿が辻の変・・・・・・・幕末に、三条実美と共に尊王攘夷派公卿として活動した姉小路公知刺客に 襲われ自宅で死去、享年27。
姉小路の一行が公卿門を出て朔平門の北、猿が辻に至ったとき、物陰に隠れていた3人の賊が襲いかかって姉小路は持っていた笏で防ぎますが、ついに顔と左肩に傷を受け、それでも屈せずに賊の刀を奪い取り防戦賊は姉小路に止めを刺すことなく遁走しますが、姉小路は邸の玄関にたどり着いたところで倒れ、手当の甲斐もなく亡くなった。姉小路が奪った刀を検分したところ薩摩造りの手裏剣と銘奥和泉守忠重の太刀が証拠となり、薩摩藩の田中新兵衛が犯人とされたが田中は取り調べ中の一瞬の隙に刀を奪い、自ら喉をかききって自害した。田中は事件の数日前に飲んでいるすきに刀を盗まれており、自らの不明を恥じた末の自刃と言われる。結局、下手人は分からないままであったが、この事件を契機に一時期薩摩藩が乾御門の警備を解かれることになった。
長州他、他藩の策略ではないかと言われているが猿だけが真実を知っている 。

蛤御門の変(禁門の変)6

2010-02-02 19:25:23 | お出かけ

幕末の蛤御門地図・・・・当時の門は北向きにあった事が判る

京都御苑の周囲にある9門の一つ、天明の大火(1788年)の際に初めて開門されたこ とから「焼けて口開く蛤」にたとえられ「蛤御門」と呼ばれている今でも御門の梁にはめり 込んだ鉄弾が残っている、起きるべくして起きた戦い1864年(元治元年)、尊王攘夷派 の勢力を取り戻そうと、長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所の近くの蛤御門[はまぐ りごもん]付近で戦いになり。これが禁門の変[きんもんのへん](蛤御門の変[はまぐりご もんのへん])です。
 
幕府(会津.桑名藩)薩摩藩両者の戦闘があり,長州藩はこの戦いに敗れ、久坂玄瑞は鷹 司邸内で自刃した鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。 晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。堀川と鴨川の間, 一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。この戦いはわずか一日で終わった、 しかし戦火は三日に渡って燃え続け「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のよ うで,命からがら逃げおおせた人々も,山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであ ったという。
小川通御池上ルにある六角牢獄にも火の手は迫ったが,この時幕府側は,破獄(池田屋事件)を企てた という理由をでっち上げて尊攘派志士33人を斬首た。
この大火により実に42,000軒の家が焼失し,難民が河原などに溢れた。こうした事態は、 支配層内の対立や薩長の天下支配欲によって引き起こされたものである。一部の人間 の私利私欲が京都の街を火の海と化したという,応仁の乱以来の悲しい歴史上の事実であった。

久坂玄瑞は、高杉晋作と共に『松下村塾の双璧』(もしくは竜虎)と称さた。
西郷隆盛は“今生きておったなら私などはこんな大きな顔をして政府の高官面はしておれ ない”と長州人に会う度言っていたという。
吉田松陰が、29歳久坂玄瑞25歳、高杉晋作28歳、彼らは、いずれも三十に満たずに亡くなっている、時代が動くときの出来事だろうか。

**天明の京都大火、(1788 年3月7日)御所焼失 町1,424・焼失 焼失家屋36,797(65,340世帯相当)・焼失寺院201・焼失神社37とされる。また、死者については150人説と1,800人説がある。壮麗な御所は建てられないとする幕府との間に摩擦が起こった尊号一件などの紛争

余談
「禁門(蛤御門)の変」駒札の説明文を修正に「御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩との間で激戦が行われました」と書かれていたが長州藩と交戦したのは会津、桑名両藩で、薩摩藩は別の門(乾門)からの応援部隊だった。
当時の桑名藩主・松平定敬は京都守護職だった松平容保の弟で、中心で幕府を支えた。会津ほどではないが、桑名は明治維新以降、賊軍という悲しい扱いを受けている。そういう歴史があったことを知ってもらいたい」と“復権”に期待を寄せた「三重県桑名市」


蛤御門の変(禁門の変)5

2010-02-01 20:02:10 | お出かけ
進軍する長州兵と避難する京都の市民「甲子兵燹図」より・・・旗印に??

蛤御門の変(禁門の変)1864年8月20日(元治元年7月19日)長州藩と幕府軍の激戦であった被害の範囲を描いたかわら版が多く残され又各自が墨や朱色で記載している。
        
蛤御門附近の戦闘を描いたかわら版紙面から戦闘による火災であることが分かる図↑↓
 
元治元年子七月十九日辰刻頃
河原町二条より出火仕少し鎮方相成
候所已刻より堺町丸太町辺より又候
出火仕候折節北東風つよく相成
丸太町通を寺町へ焼出革堂
残る夷川を河原町にて火留る西ハ
烏丸通を上長者町又下立売は
新町椹木町西洞院丸太町
東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ
西堀川通別条なし並本国寺又
西本願寺御堂別条なし東本願寺
ハミなミな焼失不動堂にて火留る
又東は加茂川通り突抜寺町木や
町等ハことことく焼失併祇園
御旅道場ハ別条なく東辺も
同断依て東ハ河原町
上ハ下立売下ハ九条
西ハ堀川まて焼失仕候
凡家数
二万五千計
かまと数
四万七千計
土蔵落
千五百ケ所
神社仏閣
五百ケ所

左が北,黒く塗られている所が焼けた範囲

左上の書文       
元治元甲子年
七月十九日河原町
二条下ル 御屋敷
朝五ツ時出火四ツ時堺町
御門より焼出シ其より
四方江焼広かり東加茂川
北今出川南焼抜老若男女わか
ちなく東山あるいハ山しな北山辺へにげ
ゆき其そうどう筆紙ニいたしかたし
さが天龍寺山さき伏見出火廿二日火しず
まり