Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

年は越せない

2017-12-31 23:33:45 | つぶやき

 昨年の大晦日に次のようなことを記した。

 昨年は老健に入っていた母は、今年は特養で元旦を迎える。けして自宅に帰って正月を迎えられないわけではないが、そんな日はもう二度とないのだろう。母はここは「姨捨山」と言うが、まさに姨捨山かもしれない。そうつくづく思ったのは、ここでは自宅復帰の道はない。ようはもはやここが自宅だから。復帰するステージがないのだから、そのステージに戻るための訓練はない。それを望むこともできない。ようは死への階段を一歩歩んだに過ぎない。残念だが、姨捨山意外に呼びようがないといえる。

 母は9月13日に亡くなった。「なぜ」と思うほど呆気なかった。結局、老健に入った後、一度家に帰ることはできたが、再び老健に入ると、その後特養に入ったまま、家に帰ることなく逝ってしまった。「正月くらい…」と思っていたが、2年続きで複雑な思いで母を見舞った。そう考えてみると、母より先に義母が亡くなっていただけに、もう少し長生きをしてこの年末を迎えていたら、もしかしたら妻が介護の手を離れていただけに、この正月は家とはいかなくとも、我が家へ来て過ごすことができていたかもしれない。

 年々忙しくなるような気がするのは、結果的には自分が年老いて、許容量が低下しているせいなのだろう。そして疲れが抜けずに日々がめぐる。夏場の草刈はなんとかこなしたものの、妻の担う農業へのサポートもほとんどできなかったというイメージだ。そろそろすべて一線を退いて、許容量に見合った仕事をするべきなのかもしれない。例年大晦日には1年間の日記を振り返ってきたが、今年ほど中身のない日記を記した年はなかった。だから振り返りたくもないという感じで、今年はそれをしない。今年を象徴しているような気分だ。足跡の無い年、あるいは記憶に留まらない年、そしてあえて言うのなら、母を見送った年であった。だから仕事納めもなければ仕事始めもわたしの気分の中にはない。節目のない、継続だけの日々の上に、なぜか「大晦日があった」、そういう状況なのである。

 先日、会社の大先輩の家を久しぶりに訪れた。わたしがまだ10代のうちに始まった先輩とのかかわりだから、もはや40年来といってもよい。したがって先輩も年を重ねられている。わたしの顔を見て、すぐに私だと分かっていただけると、過去に時間は繋がる。厳しく叱られたことは、昨日のことのように記憶に残る。時は確かに経たが、その関係だけは少しも変わらない。わたしにとってはトレースすべき標でもある。不甲斐ない今年を、語るには全てが足りない。残念ながらわたしにとって今日は、大晦日ではない。


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