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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

続々・跡形もない廃村に分け入る

2022-06-03 23:06:33 | 地域から学ぶ

「続・跡形もない廃村に分け入る」より

廃屋にあった時計

 

 生坂村入山について、今どきであればネットで検索するところだろうが、頭に浮かんだ『生坂村誌』に「入山」を求めた。刊行物に求める癖は、人間が古いということになるのだろう。ということで、「生坂村入山」をネットで検索してみた。かつてここでも紹介した廃村の熱中人である「HEYANEKO」さんにたどり着く。かつて「廃村をゆく人」で12回にわたって廃村に触れた。2008年のことであるから、もう15年近く前のこと。そのHEYANEKOさんのページに「中信・偶然見つけた峠の上の廃校舎 長野県生坂村入山」というものがある。2006年5月14日に記述されたもので、和暦でいえば平成18年のこと。そこにこう書かれている。「県道からダートもある林道を4kmほど上がり,午後3時40分頃到達した終点には家がありました。家の玄関先にはおばあさんが座っていたので,まずご挨拶をしました。私もしゃがみ込んでお話をすると,おばあさん(池田さん)は一家5人で住んでいて,お子さんはクルマで里へ通勤しているとのこと。」と。ここでいう池田さんの家こそ、前回触れた行き止まりにあった廃屋の持ち主である。廃屋と言っても、まだ電力メーターがつけられたままになっているから、表現的には間違いかもしれないが、無住となって数年というレベルではない。さらにHEYANEKOさんは「「分校や神社には手前に分岐する道があるが,わしゃ全然行っていないからわからんよ」との声に送り出されて道を戻ると,歩くのがやっとという狭い山道が見当たりました。」と記している。この分岐こそ丸山へ続く道であり、道端に「丸山牧場までは行けません」と書かれた看板があったところなのだろう。車の進入は不可能だが、かつては通れたのかもしれない。

 HEYANEKOさんは廃村とともに廃校を訪れていた。したがってここにあった入山分校を目指された由。記事にもあるが、「クルマが入れない場所にある廃校は,300校を超える廃校を探索している吉川さんも初めてとのこと。私もこれほど山道を歩いた場所にある廃校を訪ねたのは初めてです。」と感想を漏らしている。果たしてその分校の現在はどうなのか。グーグルマップで見てみると、それらしき建物の痕跡がみえるから、もしかしたらいまもって朽ち果てた建物が残っているのかもしれない。

 同じ入山を訪ねたものに「長野県の廃村集落探訪 生坂村 入山」というものがある。こちらはHEYANEKOさんのものより後年の2010年に記述されたもの。そこに『生坂村誌』から引用した興味深い記述が掲載されている。同ページよりの引用であるが、下記のようなものである。

 私はこの学校に入学した。入山の山の上にあって、先輩に人たちが労働奉仕で建てた学校だという。1年生から6年生まで、総勢18人の生徒だった。先生は井口茂先生1人だけ、教室ももちろん1つだけで、6学年同居だった。授業は3教科ずつ行われ、1,2年が国語なら3,4年は算数、5.6年は理科という具合である。
 何時の世でも1年生や2年生は先生も手がかかる。したがって大きい組は自習中心で勉強(?)が続けられ、わからない事や困ったときだけ先生のところへ聞きに行った、まったくの寺子屋方式で、時間割できめられた教科の本は同じだが、読んでいる頁は一人ひとり違っていて18人は18学級のようなものだった。
 5月に全校職員会があって、この日は本校と分校の先生たちがみんな集ってきて、この変則的な授業を見る唯一の機会でもあり、そして、1年生がはじめて校長先生という人を見る唯一の機会でもあった。
 薪割りは入山、丸山部落総出で学校で使う薪を調達する日である。学有林から木を運んで薪を作ってくれる。
 この日の日課は薪運び、先生は接待の調理士である。毎年冬になれば午前中の1時間、女生徒は味噌汁を作る。交代に味噌と野菜を持ち寄って昼食を食べた。男子生徒はわら細工である。そうりやわらじなど自分で履くものは自分で作れとの先生の言である。
 山裏分室は学校というより集会場のようなものであった。

 昭和15年に分校を卒業された方のもので、「生坂尋常小学校山裏分室」とあるがそれが入山分校のことなのだろうか。昭和44年に生坂北小学校に統合されたというから、やはり分校育ちのわたしには、それほど時代が違わない世界に共感を覚える。

 さて、もうひとつ、「生坂村の道祖神」というページがある。こちらにはわたしの求めていた道祖神が記載されている。そこにも「ここ小谷田に住むのは池田さんただお一人」とあり、HEYANEKOさんの訪れた時代に近いと思われる。残念ながら訪問された日時の記載がない。池田さんも道祖神の所在を忘れるほどだったというから、信仰が希薄化していたようす。とすれば、おそらくここで紹介されている道祖神はまだ現地にあるはず。


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