Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

剣の舞

2010-08-29 23:18:48 | つぶやき

 8月も終わりである。昭和61年の8月30日にわたしは飯山市桑名川を訪れている。当時8月の最終土曜日は桑名川名立神社の宵祭りの日だった。では今はいつなのだろうと探ってみたが、どうも9月の第1土曜日のようだ。飯山市観光協会のページからその日を探ったわけであるが、簡単に行事日程のようなものが見つからない。かつてに比較すれば観光に対する力の入れようは違うのだが、そのいっぽうでごく簡単な情報を探そうと思ってもなかなか解らないもの。そもそも桑名川の祭りなど観光という視点でいけばそれに値しないものなのかもしれない。飯山の秋祭りと言えば、シメきりがよく知られる。天狗が道中でシメきりをする所作は大松明を振りかざしたりするからけっこう絵になるもの。市内奈良沢のものがよく知られているが、この地域の秋祭りではあちこちでその姿を見る。桑名川名立神社でもこのシメきりが行われており、お練りの花形かもしれない。この天狗は神楽(獅子舞)の先導役であって、獅子宿から神社まで2時間ほどかけてお練りをする。

  桑名川の祭りはこれだけでは終わらず、お練り到着後拝殿において長い舞が始まる。薙刀の舞、ミヨ舞、獅子舞、剣の舞、サイトロメンと続く舞は当時は午前零時ころに終了した。とくに剣の舞は子どもたち3人で舞うのだが、けっこう長時間の舞である。長時間といえば坂部の冬祭りにおける「花の舞」を想像する。花の舞ほどではないが、かなり練習をしないと舞えないものだろう。

  「東西、そもそもつるぎの舞いと申すは、一拝。いざなぎいざなみの命、ししほうけんの剣は以て、悪魔こうぼくし、三十八段に切り払い、大方様に切り払うとは、四方の神々」

 この口上が舞の冒頭である。奥信濃の祭りに詳しい斉藤武雄氏によれば、隣接する土倉の人々が祭礼に特別出演していて教わったものという。その土倉はさらに隣接する羽広から教わったといい、さらに羽広では明治初年に越後から伝わったと言っているという。羽広が明治になって始めたということは、桑名川で始まったのはかなり後のことなのだろう。それにしては完璧に桑名川の祭りの代表的な芸能となっている。また舞の最後に行われるサイトロメンも独特な舞である。かつて全国的に広まっていたと言われるサイトロサシと同様なのだが、メンをつけるからこう呼ばれるようになったよう。滑稽に二人のサイトロメンが演技をするのだが、これには観衆が不可欠。

  翌年の8月29日にも桑名川を訪れた。そして同年ともに車中泊をして翌日、小谷村中谷の大宮諏訪神社例祭を訪れた。今も8月最終日曜日に行われているようだから、わたしがかつて訪れたような日程で桑名川→小谷と移動することは考えられないわけだ。わたしの記憶の中でも桑名川の祭りはとても印象深いもの。同じ長野県内でもとても遠い地。その後桑名川の祭りを訪れていないが、今はどうなっていることか・・・。

剣の舞(昭和61年8月30日)

サイトロメン(昭和62年8月29日)


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