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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

蚕の昔話

2006-05-17 08:11:50 | 民俗学
 『伊那路』(上伊那郷土研究会)最新号592号に赤羽篤氏が蚕の伝承について触れているが、一時的(一時的といってよいかは意見が異なるかも)に世の中を席巻した養蚕がこうした伝承や行事の中に今も残るような大きな影響を与えたことを再認識させてくれる。

 赤羽氏は『中国のむかし話』「蚕になったむすめ」と辰野町に伝承されている伝承との類似を、伝承の出所は中国東晋時代(4世紀)成立の怪異説話集『捜神記』(そうしんき)にあると紹介している。干宝著『捜神記』から赤羽氏が抜粋した全文をここに紹介すると次のようである。


 大昔のこと。ある役人が遠くへでかけることになり、むすめがたったひとりで、るす番をすることになりました。
 むすめはたいそうかわいがっている一頭の牡馬がいました。それでも、さびしいにつけ、かなしいにつけ、思いだすのは父親のことばかりです。あるとき、たわむれに、むすめは馬にいいました。
 「とうさんをつれて帰ってくれたら、わたし、おまえのお嫁になってあげるんだけれど。」
 それをきくやいなや、馬は、たづなをひきちぎって走りさり、まっしぐらに父親のもとへかけつけました。
 父親は馬を見てたいへんよろこび、背に乗りました。ところが馬は、やってきた方向を見て、かなしげにいななくのです。
 「けがをしているところもないのに、こんなに鳴くとは。まさか、むすめになにかあったのではあるまいか。」
 父親は、いそいで家へ帰りました。
 馬のまごころにうたれた父親は、まぐさをたっぷりやりましたが、馬は見むきもしません。馬は、むすめのすがたを見かけると、よろこんだり、おこったり、足をふみならすのです。
 こんなことが一度ならずおこるので、ふしぎに思った父親が、こっそりむすめにたずねてみました。むすめは、ことのしだいを父親に話しました。すると、父親は、
 「このことはだれにもいうな。家門の恥になる。おまえは家からでるんじゃないぞ。」
というと、石弓で馬を射殺し、皮をはいで庭にほうっておきました。
 父親がでかけた後、娘は、となりの娘と、馬の皮のところで遊んでいましたが、足で皮をふみながら、
 「畜生のぶんざいで、わたしをお嫁にしたいなんて考えるから、皮をはがれたのよ。」
 そのことばがおわらぬうちに、馬の皮がぱっとむすめをつつみこみ、飛んでいってしまいました。
 となりのむすめは、あまりのことにおどろき、たすけることもできません。大いそぎで、父親に知らせました。
 父親は、すぐにとってかえし、むすめをさがしましたが、もう、むすめのすがたはどこにも見あたりませんでした。
 数日後のこと、むすめと馬の皮が、大木の枝にかかっているのが発見されました。むすめは、馬の皮にくるまったまま蚕になって、樹上で糸をはきだしていたのです。
 そのまゆはとても大きく、ふつうのまゆとはちがっていました。となりのむすめが、枝からとって蚕をそだてたところ、数倍の糸がとれたということです。
 そこで、この木を桑と名づけました。「桑」とは、「喪」という意味です。人びとは、あらそってこの大きなまゆのとれる蚕を飼うことにしました。これが、いま飼われている蚕のはじまりというわけです。


以上であるが、もうひとつ紹介している『小学生の調べたる上伊那郡川島村郷土誌続編』(昭和11年)に掲載されている「養蚕のいわれの昔話」の伝承は次のようである。


 昔、金長者と子長者があった。子長者は子供をしゃらかしてつれて歩いた。金長者は金を一ぱい箱に入れ、馬につけて歩いた。人はみな子長者の子供を見て、奇麗だといって羨ましがったけれど、金長者の方を羨ましがって見る者は誰もいなかった。金長者は家へ帰ってきて、どうかして子供を欲しいと思った。すると、神様が白馬に爪を煎じて飲めば子供ができると言ったので、家に飼っている白馬の爪を切って飲んだら本当に子供が生まれた。金長者は喜んでその娘を育てた。
 とろろが、その白馬はその娘の呉れるものでなければ何も食べなかった。そこで家の者はこんな馬はいけないで焼き殺してしまうといって、原っぱへ連れて行って焼いた。娘は可愛そうに思って縁側に出て見ていると、馬を焼いた煙が降りてきて娘を巻いて、その侭天へ上っていってしまった。母は悲しがって縁側に立っていると、天から黒い固まったものが落ちてきた。それを母が前掛けに受けて見ると、黒い虫であった。それに桑を呉れてみると、だんだん大きくなって蚕になった。
 それで蚕神様の絵には馬と娘がいるという。また蚕神様は馬だともいう。


 というぐあいである。自家の飼育馬と娘がねんごろになったのを知って、馬を殺してしまったという話で始まる同様の伝承はあちこちにある。詳細はことなっても中国の昔話の変化といっても差し支えない内容だ。赤羽氏も述べているが蚕神の信仰として蚕玉(こだま)信仰はさまざまな形で残っている。繭玉の形に餅を作って食べる行事は小正月の火祭りなどに代表されるし、蚕玉様の石碑は長野県内にはたくさんある。しかしそれらがけして古いものではなく、石碑の多くは明治以降のものが多いし、江戸時代のものも末期のものである。ということは養蚕が盛んになったのは明治以降のことであり、江戸時代にはそれほど盛んでなかったことがわかる。「かつてはみんな桑園であった」なんていうが、実は桑園だらけであった時代とは、それほど長い期間ではなかったのだ。桑園にするために里山が開かれたということもあったのだろう。しかしながら、年中行事に蚕にかかわる文字がずいぶんと登場する。もちろん信仰として「五穀豊穣」などという文字とともに「養蚕繁盛」のような文字も躍る。そんな姿をみるにつけ、中国の昔話にもあるように、桑をくれることで蚕から数倍の糸がとれるようになったという事実が伝わるとともに、養蚕が大繁盛するようになったというようにもとれるわけだ。中国の話は4世紀の昔話であるが、日本においても同様の伝承が近世、あるいは近代において飛躍的に伝わったともいえる。



 写真にもあるような馬に乗る女神の蚕玉神を、伊那谷では時折見ることができる。また、馬に乗っていなくとも、女神が桑を持つ石像が多い。なお、写真は上伊那郡辰野町川島木曽沢のものである。左手に持っている算盤のようなものは繭の入った箱である。昭和11年造立の銘文がある。前記で紹介した川島村の蚕玉神である。

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