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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

榑木踊り

2007-10-02 12:11:07 | 農村環境


 下伊那郡泰阜村梨久保の榑木踊りが、今年から担い手がいなくなって中止するという記事が新聞に見えた。それによると、かつて100人ほどあった人口が現在28人まで減少し、20歳から39歳までの住民はゼロだという。保存会副会長で池野神社氏子総代長の柿下さんによると、「いくら協力してくれても、実際に準備する地区の住民が続けられない」と言う。踊りに使う「切り子灯籠」や柳といった手作りの飾り物の準備は、担い手が十分いたころでも一日がかりだったといい、70歳代が中心の現状では無理で、このまま続けて「みじめな踊りにしたくない」ということで地区の総会で休止を決めたというのだ。

 下伊那郡南部地域では、呼称は異なるが、かけ踊り系の祭りがいくつか残されている。もっとも知られているものが阿南町和合で盆に行われる「念仏踊り」であり、隣接する天龍村の大河内と向方(むかがた)に「かけ踊り」、上村下栗に「かけ踊り」、そして泰阜村温田と梨久保に「榑木踊り」が伝承されている。それらを総称して「下伊那のかけ踊り」として国の選択無形民俗文化財に指定されている。榑木踊りは、もともとは南山五百石領内(この地域は古くより南山と称し、漆平野・我科・温田・美佐野・大畑・田本の六か村合わせて石高五百八十石余で、一口に南山五百石と称せられていた)を、旧暦7月20日の漆平野を皮切りに、1日送りに踊り継がれ、梨久保の池野社を踊り納めとしていたものである。その後、廃止された地区もあって、日時も変更され、20年ほど前は8月22二日に温田、10月9日に梨久保で行なわれるのみとなったていた。その後体育の日が10月10日ではなくなったこともあって、梨久保では10月上旬に行われてきたようだ。

 泰阜村南部は江戸時代天領とされ、米のかわりに年貢として榑木を納めていた。榑木踊りは榑木の無事完納を喜んで踊ったのが起源といわれるが、それ以前の鎌倉時代、検視の役人が鎌倉から来て、天竜河畔の南宮島で材木改めをした時からという言い伝えもあり、定かでない。

 榑木の「くれ」という言葉は「延喜式」に檜榑、「枕草子」に「榑階」とあり、古くからあったもので、語源は「材木にいうは木断のつつまりたるにや」(「和訓集」)というように、木の短小なものが榑であったのだろうか。時代により榑木も異なったようだが、建築用材であったことは平安時代から江戸時代、どの時代も共通していたようである。江戸時代になって、屋根板材のための樽木が年貢として指定されるに至り、榑木というと主に屋根板材をさすという見方が強まったようである。(『信州の祭り大百科』より)

 さて、梨久保のこの祭りを初めて訪れたのは、昭和60年ころだったように記憶する。まだまだ賑やかに地元の人たちで祭りは執行されていて、このような状態になるという予測はできなかった。ただ、初めて訪れた際に、どこで祭りが行われるかがまったくわからなく、迷いに迷ったことを思い出す。こ祭りは宿と言われる家から始まるのだが、その宿がどこなのかが解らないのである。泰阜村というところは、誰しも思うはずだが、昼間でもこの世界に入り込んでしまうと、どこを走っているかが解らなくなる。尾根と沢が入り組んでいて、そこを等高線に沿って登ったり下ったりと、同じような風景が繰り返されるから「迷い」が生じるともうだめなのだ。そんな世界に真っ暗な時に入っていくのだから、自業自得といわれても仕方のないほど「迷い」は当たり前なのだ。まず家の明かりが見えない。いや、見えてもどうすればその家にたどり着くかがわからないのだ。そんな思いをしながら宿を探し出したときには、神さまに手を引いてもらったがごとくありがたかったものだ。ただでさえ山の中の村の、さらに奥まったところにある梨久保なのだから、いずれ人口減による中止というものもあり得ることだったのかもしれない。しかし、それほど奥まったところの素朴な祭りにひかれて、その後数年の間、毎年訪れた祭りの一つであった。

 祭りの場所がわからないのは当たり前で、最後は神社まで練って踊り納めになるのだが、宿で祭りが始まっても神社には明かりは点いていないのである。宿から出発した行列が、参道入り口にたどり着くと、ようやく参道に明かりが点るという具合で、行列とともに明かりも進んでいくのである。それほど真っ暗な世界に厳かに進められた祭りも、記事によると集落外の人々によって最近は継承されていたようで、泰阜村の松島村長も夫婦で唄い手として参加していたという。池野社で最後に踊られる笠破りという激しい踊りのイメージが、今も思い出される。写真は昭和62年に訪れた際に撮影したものである。来年以降再開される見通しはまったくないという。この記事を目にして「モノクロの彩り」に昭和61年に撮影した写真を掲載することにした。また、まだ公開していないが、「音の伝承」にも梨久保の榑木踊りを掲載したいと思っている。

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