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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑱

2007-02-27 08:15:34 | 歴史から学ぶ
 木曽谷の中心地であった木曽福島町は、中山道の宿場町であり福島関所や代官所がおかれていた。平成17年の人口は7千5百人ほどで、木曽の中心地とはいえ、過疎化が進み、若い人たちが留まれない環境があった。ところで、木曽郡とはいうものの、1968年までは西筑摩郡と言われていたもので、なぜ言われていたかといえば、もともと現在の東筑摩郡とともに筑摩郡というひとつの郡内だったためである。1879年に分割されたのちに西筑摩郡となったもので、約90年ほどは西筑摩郡と言われていたわけだ。木曽郡と呼んでいる時代よりも、西筑摩郡と呼ばれていた歴史の方が長いわけだ。

 木曽谷は、国道20号という幹線道路と中央西線が谷の中のそれぞれの町村を結ぶ手段で、ひとたび災害でも起きると通行が遮断される環境にある。災害どころではない、国道20号で事故でもあったりすると、この幹線道路は大渋滞となり、この谷を通過するのは不可能となる。それほど生活するものにとっては不安定な環境にある。田中知事時代に木曽川右岸道路の建設が始まり、ようやく複合的な交通手段へ向けた取り組みが始まったところである。とくに木曽高速とまで言われる国道20号を生活道路としても利用していたわけだから、悪く言えば、通過する大型車両の恩恵は何も受けずに、排気ガスの公害とそれらの通行車両に追いまくられるという危険な交通環境に共存していたわけである。そんなこともあってか、谷の中はひとつではあるものの、木曽谷全域でも3万5千人程度という人口でありながら、全域がひとつで市制を敷くという合併にはこぎつけることがてきなかったわけだ。のちに木曽中北部での合併を模索したが、上松町と木祖村は合併反対と住民投票や意向調査でわかり、離脱した。残る日義村・開田村・三岳村と王滝村が合併に進んだが、王滝村は財政状況が極めて悪かったために離脱して、4町村において平成17年11月1日に木曽町として発足した。合併しても人口は1万4千人弱ということで、山間を抱えたこの地域にとっては厳しいことに変わりはないわけだ。それでも平成18年に開通した権兵衛トンネルによって、木曽谷と伊那谷が短時間で結ばれるようになり、木曽谷の北部地域に人たちにとっては、少し明るい材料となっていることは確かである。

 パンフレットは昭和54年に送っていただいたもので、表紙の写真は7月末に行なわれる〝神輿まくり〟のものである。このように神輿を転がす荒っぽい祭りで、転がすことを〝まくる〟というそうだ。

 木曽福島から旧開田村への道沿いに黒川谷というところがある。割合開けた感のあるのは、開田村と木曽福島を結ぶ間にあるというその立地のせいだろうか、木曽谷しては比較的明るさを感じる地域である。なぜ明るいかと聞かれても明確にはいえないのだが、ほかの木曽谷地域よりも空が広いという印象が、そうさせているのかもしれない。その黒川谷に清博士というところがある。「せいばかせ」とわたしは呼んでいたが、人によっては「せいはかせ」というらしい。ここに二基の五輪塔があって、地元では清明様と呼んでいる。この塔は安倍清明の墓と言われてきたもので、もともとは清博士ではなく、清墓士と書いたともいう。ご存知のとおり安倍清明は平安時代の陰陽師として有名である。この近辺に安倍清明の伝承はほかにはないようだから、終焉の地という証拠はない。安倍清明の墓としては、一般的には京都の嵯峨にあるものが知られていて、黒川の墓はあまり知られていない。わたしがはじめてこの清博士を知ったのは、たしかシバザクラがたくさん植えてある場所があって、そんな風景を写真で見てのことだった。のちにそのシバザクラを目当てに訪れたわけだが、その後もこの谷の道祖神を訪れている。黒川谷のあちこちに特徴ある道祖神があって、ゆっくり訪れるにはまとまった地域でもあった。写真は昭和63年5月8日に撮影した清博士の道祖神である。



 消えた村をもう一度⑰
 消えなかった村③

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