図は前編で紹介した「伊那谷の十王像分布」と同タイトルである。もちろん図に落とした記号は全く同じである。その上で背景色に優占宗派を示した。優占宗派とは、その村にある寺の宗派をカウントしたもので、最も多い宗派の寺を「優占宗派」とした。その村にある寺の数は、『長野県町村誌』に掲載した村ごとのもので、本図が大正9年の行政枠を採用していることから、『長野県町村誌』の村と必ずしも一致しない。大正9年の行政枠に関係する村を合算した、あるいは分割して数値化したが、寺の位置がはっきりしないものもあって、若干わたしの勝手な割り振りがあることは承知願いたい。村内の寺の宗派が同数になった場合は、寺の敷地面積で判断した。ようは大きな寺を優先宗派に割り当てた。なお、『長野県町村誌』のデータは、明治8年から12年ころまでのもの。
十王堂については、信仰の衰退の背景に寺が関係していると考えられている。寺が檀家を囲い込んでいく際に、堂を末寺にしたり、あるいは主尊を置き代えて違う名の堂に変更したりしていった。したがって十王像は不必要な存在になっていったわけで、それは宗派によって差があったともいう。「十王信仰と曹洞宗寺院は相反する」、あるいは「天台宗と十王信仰が深い関わりをもっていた」という指摘を「上伊那における「十王信仰」」(『伊那路』248号 1977年)において中村弘道氏がしている。しかし、図を見る限りそれを証明するほどではなく、むしろ曹洞宗エリアに十王像は多く残存している。天台宗エリアに十王堂が手厚く保存されているとも見えない。そもそも曹洞宗寺院が伊那谷を席巻しているとも見える状況下で、なぜ伊那谷にはこれほど十王像が残存したか、その理由はなかなか解けない。
終わり
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