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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「縄植え」と「植え直し」と「ハシゴ引き」と

2025-05-28 23:50:29 | 農村環境

 会社の入社して数年までの若い人たちが、「研修」という名のもと姨捨へ行って田植え体験をしてきた。姨捨については、20年も前に「棚田の保全」で触れたのが最初だ。その5年後に「棚田」を記し、2018年にも「文化財の行方」にも少し記した。かつて長野勤務時代に姨捨の棚田にかかわった。水路整備もしたが、果たして「これで良いのか」などと当時は考えた。

 「どんな田植をしたの」と会社の若者に聞くと、綱を張って横一線に並び、一株植えると綱を下げて(後退)綱に沿って植えたという。いわゆるかつての縄植え方式の植え方である。一株ずつ植えて綱を移動するというのでは、手間がかかる。思わず「なんていう暇な…」口にしてしまったが、現実的に手植え時代に行われた方式であることは確かである。ただしこの植え方はあまりメジャーではないと、わたしは思っている。そもそもわたしはそのような手植え方法の体験はない。もちろんわたしの年齢では、子どものころ田植を手で行ったのは当たり前。しっかり田植え経験がある。そのころの植え方は筋植えだった。ようはあらかじめ水田の地面に筋をつけて、その筋に沿って目見当で植えていったもの。したがって横から見れば揃ってはいなかったと思うが、一定間隔があれぱ、横は揃っていなくても良いはず。したがって綱に沿って横一線というのは、時間ばかり要して面倒くさいこと。目見当で縦方向、いわゆる畝だけ通していったほうが圧倒的に早い。ちなみに縄植えについて『長野県史民俗編』第四巻(二)北信地方「仕事と行事」の「田植え」には、稲付(上水内郡信濃町)の事例に次のように書かれている。

ナワハリの場合は、両端に縄を張る人がいてはい、はいと声をかけながら植えさがる。

 さて、会社で田植えの話をしていた際に、飯田から通っている若者に「手で植えたことあるの」と聞くと、植え直しをするから経験があるという。ようは機械で植えたあとに株が薄ければ追加したり、また植わっていないところがあれば植えたりすることを「植え直し」という。ところがこれを盛んに今でもするのは下伊那くらいで、ほかのところではもうしなくなっている。もちろん全てではないが、「植え直し」と言っても意味が解らない人たちが多くなった。経験かないから当たり前である。

 今日は午後休んでホンジロをした。場所によってはアゲシロと言ったり、ウエシロと言ったりする。最初にする代掻きをアラジロといって、田上直前の仕上げの代掻きをそう呼ぶ。今年の我が家の田植えは6月に入ってしまう。このごろよその田んぼを見ていると均平でない田んぼが目立つ。我が家では相変わらずホンジロの後に木のハシゴを引く。トラクターによってできた凸凹をハシゴを引いて均すのである。これも下伊那ではまだ見る光景である。

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御上の言うことを聞いた

2025-05-27 23:25:41 | ひとから学ぶ

 以前お客さんと話していたら、県の検査で指摘されて「〇〇規約」を廃止したと聞いていた。その規約そのものを「なぜこのようなものがあるのか」と指摘と言うか、当人に言わせると叱られたという。わたしの経験上、それこそ「なぜ廃止しなければならなかったのか」と疑問が湧いた。そこで会社を通して国のある機関に質問をあげたのだが、その回答が戻ってきた。それによるとその県の検査は法律で定められた検査だから、その指摘に対して結論は述べられないと、逃げ口上だった。お役所だからそれも仕方ないとは思ったが、逃げ口上に補足して、そもそもそうした検査の指摘は、両者が了解した上で改善策を講じるもので、指摘に異論があるのなら指摘した側に納得いく説明を請うべきだともいう。ようは指摘が百パーセントではないという。

 ということでその回答と、わたしなりの解釈をもってお客さんのところを訪ねて回答について説明をしたわけだが、お客さんが言うには、「御上の言うことは聞かなくてはならない」という思いが強かったため、反論できなかったという。それで言われた通り規約を廃止したという。その規約は遡ること40年ほど前に制定されたもの。もちろん当時の意図を今解くことはできないが、当時制定したには理由があったはず。言われた通りにやってしまったことが果たして良かったのか、とわたしの説明を聞いてお客さんは言う。なにしろ検査は高圧的で(お客さんにはそう思えたよう)、「聞かなくてはならない」と思ったという。お客さんも県とかかわりのある仕事を現役時代にされてきた方で、無難にこなすには、聞いた方が良いという考えを持っていたよう。世の中にはありがちな話なのだが、わたしなどは納得できないと反論してしまい、損もしてきた人生だが、おおかたは御上に言われれば「従うしかない」という意識がある。あえて「喧嘩」はしない。損得勘定すれば、そういうことになるのかもしれない。しかし、自分だけのことならともかく、お客さんにとってのお客さんに不利に働くことなら、やはり言うべきことは言わなければならなかったこと。今さら、の話しながらこういうことがなくならないわけだ、「御上」は偉大なり、と。お客さんは最後にこう言った。「市町村のみなさんはいつも地元の人たちに小言を言われる関係、国の方たちも同じ、県の皆さんはそれがない」と。

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ガラス越しの十王像

2025-05-26 23:53:29 | 地域から学ぶ

 十王堂を訪れると、鍵が掛かっていて直に触れられないものもある。まだ外から見えるものなら良いが、完全に閉じ込められているものは見ることもできない。かつてならオープンだったのだろうが(そもそも廃棄寸前のようなものを保護するという意図はなかっただろう)、あらためて捨てるわけにもいかなかったモノにもどう対応してよいものか、と考えるすきを与えたことが、今の時代の十王の存在に繋がっている。

 堂の前面に窓があれば中は覗ける。格子戸になっていてそこから覗けるのは最良だが、その格子戸にガラス、あるいはプラスチック製の窓が施されていても、一応中は確認でき、カメラを直接そこに当てて写真を撮れば、なんとか十王を撮影することもできる。

 

伊那市西春近小出一区東方エンマ堂十王像

 

 伊那市西春近小出一区の東方(ひがしかた)にあるエンマ堂は、集落の北外れにあり、周囲には墓地が広がる。典型的なかつての十王堂のある景観と言える。ここの十王堂は、まさに格子戸になっていて、その格子にはガラスがはめられている。したがって遠目ではガラスが反射して仲がみづらいが、ガラスに接近すると中は確認可能だ。そのガラスにカメラを当てて撮ったものがこれらの写真である。真ん中に木造の大きな像がある。おそらく閻魔王を表しているのだろう。石造の十王がちょうど9体あり、1体足りない。ようは木造があとの1体にあたる。こうした例はほかでもよく見る例で珍しくはないが、木造の十王の痛みはほかのものに比べて著しい。最初から木造1体と石造9体というスタイルだったのかは定かではない。そもそもエンマ堂と呼ばれているのは、中央にある木造大型の閻魔王を象徴的に捉えたものなのだろうが、その名称にも変化があったのかもしれない。

 このようにガラス越しであっても見られるだけよい。ところが同じ伊那市東春近の中殿島公民館にある十王堂は、ガラス越しなのだが、そのガラスが擦れていて中が見づらい。綺麗にふいて捕っても、写真は雲の中だ。ガラス越しより、そして格子越しより、実物に触れられる十王堂であってほしい。もちろんそうもいかないことは承知だが。

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明治初期村絵図に見る空間認識②(描かれた図から見えるもの㊲)

2025-05-25 23:51:28 | 民俗学

明治初期村絵図に見る空間認識①(描かれた図から見えるもの㊱)より

 

 

 上伊那での傾向は、明らかに谷の中央から山々を頂においた構図で村を展開していたということ。とりわけ「描かれた図から見えるもの㉟」でも触れた飯島村の図は、村の空間からは外れて山々を横から見たように描き出していた。いかに山々を象徴的に捉えているかわかる。同じように山々を横から描いた例では中箕輪村の例があるが、飯島村の描き方とは少し異なる。飯島村の例は、山が人々の空間とは隔絶している感がある。おおかたの村では例えば片桐村のように、山を上から見た形で図上に描いており、横から描いている飯島村とはまた異なる。

 さて、2回目は上伊那に加えて下伊那の村々を追加してみた、いわゆる伊那谷の地図である。前回詳述しなかったが、正確に「西」を向いているとか、「東」を向いているわけではなく、若干方角はずれている。ただし絵図そのものが現在の地図とは異なり、正確性に欠けるため、おおよそ東西南北で方向は分別できた。例えば東南東は「東」、西北西は「西」としてまとめた。同様に下伊那を割り振ろうとしたら、下伊那では上伊那と違って、谷そのものが若干上伊那よりぶれてくる。したがって東西南北に加えてそれぞれの中間の方角を加えた。煩雑になってくるが、正確性を考慮して追加した。

 上伊那同様に、天竜川の東西でその向きは逆転するが、上伊那に比較すると統一性はなくなってくる。理由は高山がなくなり、山々の標高が低くなるせいもある。やはり象徴としての「山」があるかないかというあたりと関係するかもしれない。とはいえ、前述したように天竜川が南西に向かって流れる飯田近辺では、右岸は「北西」へ、左岸では明瞭ではないが「南東」へ向く村が見られる。意図とすれば、やはり山を図上へ置く上伊那の構図と同様と捉えられる。そうした中で、曖昧になってくるのが南部や西部の村々である。前述したように必ずしも高い山が象徴的に存在しなくなるとどうなのか、ということになるが、それでも天竜川を境に逆転する構図は、ほぼ一致している。阿智村周辺の村に「北」を向く例があるのは特例である。

続く

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明治初期村絵図に見る空間認識①(描かれた図から見えるもの㊱)

2025-05-23 23:57:29 | 民俗学

描かれた図から見えるもの㉟より

 

 

 『長野県上伊那誌』の「現代社会篇」の付図のうち、明治時代に描かれた図からその図の描き方が山を上にしている傾向を見いだしたことにより、それら明治初期の絵図に着目してしばらく検討をしていくこととする。

 その1回目は、とくに従来から「木曽山脈」という象徴性の高い山々を図上に描く空間認識に気づいていたことから、上伊那地域のそれら図の方向を一覧化してみた。その上で地図化したものがここに示したものである。これらも「民俗地図」のひとつとわたしは捉えている。

 NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブに公開されている「明治初期の村絵図」は、『長野県町村誌』に取りあげられている明治8年ころから数年の間の自治体ごとに整理されて付図1枚が添付されている。それらの図を閲覧し、図の上下を判断したわけであるが、例えば現伊那市にある「美篶村」の図を開くと、表題である「筑摩県第拾六區七小區伊那美篶村 全村略図」は東向きに書かれている。しかし凡例は北を向いているとともに、図の中にある地名などの記載方向の多くは主たるものが北を向いていることから、この図の図上は「北」と判断した。これら絵図の書き込みは、図上を意識せずさまざまな描き方をしていて、どちらが図上か判断しづらい例も見受けられるが、基本的には①表題、②凡例、図の中の地名など記載方向、といった三つの条件を総合的に捉えて判断することとした。とくに判断する際には凡例の方向を第一とし、それでも図の全体的な向きに違和感がある際には、凡例以外の表記から図上を判断した図も稀にある。

 こうして図上を判断したものを例のごとく長野県民俗地図に落としてみた。ここでは小原稔氏が作成した『長野県町村誌』の長野県町村誌地点v0.gpkgデータを利用させていただいた。

 図を見ればすぐに解ることは、天竜川西側では、ほぼ西向きの図で占められている。唯一宮田村が南向きというのはなぜなのか不明であるが、現辰野町にあるかつての村を除くと木曽山脈を図上に表しているのである。また天竜川の東側に目を移すと、その向きは逆転し伊那山脈を図上に描いている。そのいっぽう伊那山脈の東側の谷、いわゆる中央構造線の谷の村々はなぜか「北」向きとなる。いずれにしても、「山を上に描く」という確率は高いことが言えるわけである。

続く

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描かれた図から見えるもの㉟

2025-05-22 23:56:11 | 地域から学ぶ

「大正10年「上伊那郡地図」から」より
「描かれた図から見えるもの㉞」より

 

明治14年「上伊那郡図」

 

 『長野県上伊那誌』の「現代社会篇」の付図4枚のうち国土地理院の図を利用した大正10年、昭和41年のものについてここまで触れてきたが、あと2枚、明治期の図を見て「これは」と思ったことがある。これまでの図はいずれも図の上は北を示していた。ところが明治期の2枚は図の上が木曽山脈なのである。図が大きいため、ここでは一部分だけ示したが、例えば明治14年の上伊那郡図は、図の上郡外は「西筑摩郡奈良井村」と記されている。権兵衛峠より北側の西箕輪、南箕輪、中箕輪、伊那富村、三里村といったところを映している。ようは北は右側で、上は西を示す。

 

明治16年「上伊那郡図」

 

 もう一枚明治16年のものも同様で、図の上に「西筑摩郡」(現木曽郡)がある。ちなみに前回飯島村の境界が違っていることを示したが、この図では、七久保村の西側は与田切川源流を境に南側全てを「七久保村」としてしめしており、また、上片桐村も同様に烏帽子岳付近まで「上片桐村」となっている。もちろん日曽利は「大草村」(明治22年に大草村、葛島村、四徳村が合併して南向村となっており、明治16年時は大草村である)となっており、飯島村ではない。

 さて、これらの図が木曽山脈側を図の上に示していることから、これまでわたしが何度も触れてきているように、この地域では木曽山脈、いわゆる地域にとって最も高い山々を図の上に描く傾向が、ここにも見て取れると思う。そして古図に見る図の描き方を、あらためて整理してみようと思う。最近利用している「『長野県町村誌』と明治初期の村絵図」のページに掲載されている「明治初期の村絵図画像」というものがどの方向を図上と捉えているか、それこそ長野県図にして今後示してみたいと思う。なお、とりあえず上伊那郡内はどうかと探ってみると、例えば飯島村は、この図が掲載されていて、年号が記されていないものの東側に「南向村」、南側に「片桐村」があること、そして飯島村に既に本郷村と田切村が合併していることから、明治8年から明治10年代初めまでの間に描かれたものと推定する。掲載された図は左側に「駒ヶ岳」があり、表題は左を向いていることから、やはり山を図上として描いていることになる。こうした見方で、今後掲載されている図の方向を整理してみることとする。

続く

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大正10年「上伊那郡地図」から

2025-05-21 23:07:38 | 信州・信濃・長野県

昭和41年国土地理院図から」より

 

「上伊那郡地図」(『長野県上伊那誌』「現代社会篇」付図)

 

 『長野県上伊那誌』の「現代社会篇」の付図4枚のうち大正10年のものについて全体図を示した。モノクロでスキャンしたが、実物はグレー色である。陸地測量部の5万分の1図を編集したもので、12万分の1と図示されている。陸地測量部は、日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたったといわれ、現在の国土地理院の前身と言われる。明治21年に設置されたもので、この大正10年の原図は、この地域では最初の今でいう地理院図だったのではないだろうか。

 ところでこの図を見ていて、これまで頻繁に民俗地図で利用していた行政区域図のおかしなところを見つけた。民俗地図では大正9年の行政枠をここのところ多用していた。その図に国土地理院の現在図を載せて示した上伊那南部の図が下図である。赤色で示しているのが当時の町村名である。飯島村が囲うように真ん中にある村が七久保村である。現在の飯島町七久保であるが、左側の中央アルプス側で飯島村が七久保村の西側を独占して上片桐村境まで存在しているが、七久保村の西側は七久保村だと認識している。ようは飯島村が大きすぎるのである。

 もうひとつ、飯島村の東側、天竜川より東側に張り出している部分は日曽利地区であり、ここが現飯島町に合併したのは昭和24年のこと。したがって大正9年時は南向村だったはず。

 

現国土地理院図へ大正9年行政区域(国土数値情報ダウンロードサイト)を載せたもの

 

 これに気づいたのは冒頭の大正10年の上伊那郡図を見ていて七久保村の南に接する上片桐村の行政枠がこの図とまた違うからであった。ここにその図の一部を拡大したものを示す。上片桐村の西側の村界が、集落背後を蛇行している。一方上に示した図では烏帽子岳の近くまで村界が上って行っている。どうも大正10年前後に示されているふたつの図によれば、このふたつの村の境界は間違ってているようだ。

「上伊那郡地図」(『長野県上伊那誌』「現代社会篇」付図部分拡大)

 

 さて、大正10年の上伊那郡地図、拡大図でわかるように現在の飯田線が上片桐駅までしか通じていない。その南は点線で片桐松川を渡ったところまで引かれているのみ。飯田線の前身である伊那電気鉄道は、大正9年11月22日に高遠原―上片桐間が開通している。伊那大島まで開通するまでそれから2年ほど要す。

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昭和41年国土地理院図から

2025-05-20 23:49:01 | 信州・信濃・長野県

 これまで手元にあると思っていた『長野県上伊那誌』の「現代社会編」を以前にも触れた伊那市グリーンファームで安く手に入れた。裁断してスキャン用にしようと思って手に入れたのだが、あらためて家に帰って書棚を確認したら、持っていなかった本。同様に「自然編」も手に入れた。こちらはもともと所持していないと認識していたものであるが、いずれも千ページを超える大著である。手に入れた「現代社会編」には昭和42年6月に発行された領収書が挟まれていた。それを見ると、当時は同書の刊行主体であった上伊那誌刊行会に「支会」というものがあって、それは学校ごとあったようだ。ちなみに今回の図書に挟まれていた領収書は、「上伊那誌刊行会河南小学校支会」が発行している。ようは学校単位で領収書を発行していたようで、学校が本書の刊行後の販売主体になっていたとも言える。そう捉えると大勢いる執筆者のほとんどが学校の先生である。学校の先生たちがこのような大著を片手間に編集して刊行するという、今では考えられないようなエネルギーをそこに感じるわけである。ちなみに領収書には2500円とある。昭和42年の2500円は、高額だったと予想するが…。

 

『長野県上伊那誌現代社会篇』付図 昭和41年「上伊那地図」より

 

 さて、「現代社会編」には付図が4枚別の袋に入って添付されている。明治14年、同16年、大正10年、昭和41年の上伊那図である。前者2枚は千村与造氏が編集したもので、後者2枚は国土地理院の地図を上伊那教育会が編集して上伊那郡図としたもの、あらためてそれらを見てみると興味深いことがいくつかうかがえた。まず最新の昭和41年の図である。「現代社会編」が発行されたのが昭和42年1月であるから、最新の上伊那郡図であったことになる。図は10万分の1の図で編集されているが、欄外に国土地理院の5万分の1地図を利用したとある。シンプルな図であるが、当時の様子がそこからうかがえる。もちろん中央自動車道が図にはない。10年も経たないうちにこの高速は駒ヶ根まで開通している。とくに近在のことが気になるのだが、現在の中川村片桐のあたりを見ると、小和田から南田島まで真っすぐの道が描かれている。これは現在の国道153号を示していると思われるが、実際はこんなに真っすぐではない。わたしの記憶では昭和41年時には、まだこの国道は全通していなかったはず。子どものころ、正確な年を覚えていないが、まだ牧が原トンネルが開いておらず、途中まで道が盛られていた姿を小和田で見ている。昭和41年を過ぎていたと記憶する。おそらくこの真っすぐの道は、この後できる道を想定して描かれているのではないかと想像するのだが、通常の国土地理院の図ではありえないこと。さらに現在の飯島町の与田切川を渡る旧国道153号線は南から来ると川を渡って右へ左へと曲がって飯島の町に入っている。これは今もかつてのその道が残っているが、現与田切橋より下流にあった道である。この道は前者と違って当時既に現与田切橋があったのではないかと記憶する。

 なによりこうした古い図を見ていて思うのは、集落、とくに山の中の集落表示である。ほぼ昔も今も国土地理院に示されている集落は変わりないが、山の中にかつてあった集落は、ことごとく今の国土地理院の地図からは消し去られている。とくに目立つのは三峰川上流域の村々である。現在の地図では旧長谷村の浦までしか記載されていないが、昭和41年の図を見ると「奥浦」はもちろん、「桃ノ木」「戸草」「塩平」「割芝」「平瀬」といった集落が明示されている。また戸台川の奥にも「大久保」「吉ケ平」といった集落が見えており、今では跡形がたなくなった地域である。こうした旧図と現在を見比べてみるのも良い。

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ムラに最初に住み着いた家の呼び名

2025-05-19 23:39:54 | 民俗学

かつて飯田市誌編纂で行われた民俗に関するアンケートより

 

 

 〝かつて飯田市誌編纂で行われた民俗に関するアンケート〟を書いてからずいぶん間を空けてしまった。

 図は最近作成した等高線の図の背景に置きながら、飯田市誌編纂時に収集したアンケート調査のデータを図化したものの一例である。飯田市といっても旧市であり、平成合併以前のものである。合併後の現在の飯田市枠はもっとそうだが、合併以前の飯田市もまとまった印象はなく、やはり周辺地域とともに扱わないと傾向を出しづらい市域ともいえる。ここで扱ったのは「ムラに最初に住み着いた家り呼び名」というもの。社会生活のトップに登場する質問で、クサワケとかオヤカタと言った答えとなる。図を見てみ見ると、この地域ではオヤカタと呼ばれる例が多いことがわかる。クサワケとかオーヤという呼称も見られるが、やはりオヤカタ地帯であることは確かである。比較的天竜川左岸に色濃く残る「オヤカタ」であるが、右岸側にも意外にオヤカタは多い。

 

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今年最初の大土手の草刈

2025-05-18 23:30:56 | つぶやき

 毎年ここで話題にしている土手の草刈をした。土手にある木2本は桑の木である。伐っても根が残っているから再び枝を張ってくる。ある意味、崩落防止の役も負っているので、とりあえず伸びたら伐るを繰り返している。真ん中から右手へ30メートル近く、左手に40メートルほど法は続く。そして右手の道路下の法面も我が家の土地のため、そこも草を刈った。ずっと傾斜地に踏ん張って刈る作業だったから、家に帰ってほぼ転寝して夜は終わった。したがってこの日記も翌日書いているというわけだ。

 刈った土手に点々と草が残っているが、これらは月見草である。あちこちに出ているので、すべて残すというわけにもいかず、伸びているものは「残した」といった感じ。これらを残すように刈るのも、結構面倒くさい。

 この土手の問題点は左側の上部、柵のようなものが見えるもの。これは通称「丸太柵」と言っているもので、災害で畦畔が崩れて復旧する際に施工されたもの。その下にはフトン籠が施工されている。畦畔の災害復旧では、長野県内では多用されている工作物だが、あくまでも法面が安定するまでの一時的なもの。5年以上前に復旧された際に設置されたものだが、木は腐ってきていて、間もなく朽ち果てる。この工法を安易にお役所では採用するが、実はとても厄介な代物。近ごろの土建屋さんは、盛土を入念に施工しない会社がいて、この柵の周囲は施工しても法面がしっかりしていない。ようは転圧不足は否めず、これがために再び崩れても不思議ではない。我が家のケースでも、施工して間もなく丸太柵の上を歩くと足が沈むほどで、ふわふわ状態だった。もちろん今も変わらないが、この工作物は設けない方が法面は安定する。わたしの会社はこうした復旧に関わっているのだが、後輩たちにはこんな工作物は「設計するな」というのだが、なかなか聞いてもらえない。

 もうひとつ写真上に赤丸で示しているのは湧水である。この湧水はここから40メートルほど左手の法面から湧出しているもので、1年中そこそこの水が出ていて、枯れることはない。ここの草を刈る際には、手を洗ったり、都合よく利用している。

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標高1000m以上あれこれ

2025-05-17 23:35:04 | 民俗学

『長野県町村誌』から民俗地図を 外編その3より

 

 

 

 等高線の図が完成したところで、実際の地図を合成してみた。かつてここで紹介した既存の図を利用して「ハザ干し段数」と「節分に魚を挿す木」を再作図したものがこれらの図である。稲架については、かつて“はさ干し“と題して何度か触れたし、また、「ハザ掛け」と題して下伊那地域の稲架を中心に事例を報告した。多段式と言えば阿南町門原の6段のもの、あるいは阿南町帯川の4段のものなどがあるが、何と言っても11段を数える木曽黒川のものは見事だ。図てもわかるように、バザ掛けの段数はも標高とは関係しないことがわかる。ようは標高が高くても陽当たりが良ければ、多段式にはならないというわけである。

 これまで作成した図に、標高とかかわりがありそうな事例がなかなか見当たらないわけだが、無理やり合わせてみたのが、もう1枚の「節分に魚を挿す木」である。あえて言えば「かや・茅・榧」が1000m以上地帯との境界域に見られる。裏を返すと800m域にそれらは多く存在する。そして600m域には「豆殻・大豆の枝」が多い、と言える。

 

 こうして重なりを見せられる図をいろいろ作成してみるのも、GISによる作図の利点である。とはいえ、その関係性を述べられるような地図はなかなか登場しないのが現実。手を掛けるほどに利用頻度は低いというわけだが、いっぽうでGISの利点を使う以上は、こうした重ね図をこの後も作成していかなくては意味がない、ということにもなる。重ね図という観点でもうひとつここに図を掲載した。標高1000m以上と800m等高線、加えてみたのは農振図である。重なりがあるため、農振図を上に載せた例である。南佐久や諏訪、木曽のような地域全体が1000mを越えるような地域はともかくとして、松本平や伊那谷は、標高800mラインが農振地域の境界になっている。同様な視点は、長野地域の東縁部にも言えるほか、上小地域の西縁部なども整合する。

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たった1時間の畔塗り

2025-05-16 23:00:37 | 農村環境

 この季節になると、アクセス数トップになる「1年でたった1時間だけ使う小型畦塗機」を使って、畔を塗った。予定では先週の土日曜日あたりに塗る予定であったが、先週降った雨で田んぼが乾かず、畔塗りには適していないと判断した。とはいえ、このままでは6月になってしまうため、仕事を早退して夕方畔塗りとなったわけである。明日は「雨」らしいから、今日しないとしばらく畔を塗れなくなる。なにしろ1時間もあれば終了する仕事。ベストなタイミングで休んでもせざるを得ない仕事なのである。

 というものの、やってみていつも思うのは、ベストなタイミングなのかどうか、ということ。実際、わが家の田んぼは1枚の田んぼの中でも乾き具合が異なる。なかなか乾かないところもあれば、雨が降っても比較的乾き気味なところもある。狭い田んぼながら、畔が長いという、条件の悪い田んぼである。今年やってみても濡れ気味なところもあれば、乾いている所もあった。出来上がったところを見れば、濡れている方が「畔を塗った」らしく見え、乾いているところは、少し物が当れば、すぐに崩れてしまいそうにも見える。乾いていても「塗れる」と言われているものの、やはりある程度濡れていた方が、しっかりした畔が塗れる。

 なにしろ「こあぜ」の動画を見ていると、いとも簡単に畔を塗っているように見えるが、わたしが塗る際に、こんなにすんなりとはいかない。すんなりいくケースは、かなり土が乾いている状態。ところが前述したように、乾きすぎていると動画のような畔にはならない。湿り気がある土では、機械がすんなり前進しないため、畔塗り状況を見ながら、機械を無理やり操作する感じになる。真っすぐ進まずに方向が曲がってしまわないように、あるいは早く進みすぎて塗りが不完全にならないように…。かなり操作には力を要す。繰り返すが、1年にたった1時間だけ使う機械だから、「これで良い」という操作を、いまだつかみ損ねている。もちろん1年に一度だけだから、忘れてしまうのも事実だ。

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コピペの弊害

2025-05-15 23:27:23 | ひとから学ぶ

 私的なメールはともかくとして、業務上のメールでは、近ごろ気になっていることがあった。お役所とのかかわりが多いわが社の個人メールには、部署専用のアドレスはもちろんだが、個人用のアドレスでもメールは届く。そしてお役所の方のメールには、近ごろ「Cc」が付属することが多い。始まりのメールならともかくとして、返信でも「Cc」へ変身される方が多く、とても気になっていた。ようはメールの内容を共有してもらうために「Cc」を付属させるのだろうが、返信まで続けていくと、当事者としては目にしなくても良いメールを受け取ることになるし、こういうことを常々していると、メールがたくさん届いて整理が大変になってしまう。宛先の方はともかくとして「Cc」の方がどれほど共有しなければならないのか、考慮してほしいことと、容易な言葉を使って返信もできなくなる。ようは宛先の方に返した返信が、そのまま「Cc」の方にも共有されてしまうことが多々ある。仕事上のメールだから、お役所の意図はわかるのだが、お役所の個人メールとはいえ、容易には返信できず、言葉を選ばざるをえなくなる。ということで、「Cc」を多用する方に返信する際は、気を付けるようにしている。

 「Cc」ではないが、コピペすれば容易にメールを関係者に送ることができるから、そして「Cc」で一度に大勢に同じメールを送れることから、送る本人も気をつけてほしい、いいや「これはまずいんじゃないの」というメールを、先日会社の後輩に見せられた。後輩に「みんなに聞いてみて」と言って投げた言葉を受け、後輩は若い人たちの集会で質問をした。そこには職員組合のトップもいたようで、その問いに対してトップは若い人たちの代表に、その問いに対してメールで返信をした。公開してもらうための返信ではなく、若い人たちの代表に向けてのあくまでも応急的回答だったと思う。そして問題なのは、そのメールの内容を、代表は若い人たち全員にコピペして流したのである。組合のトップはあくまでも代表に対するつぶやき的回答だったと思うのだが、その原文をそのまま送られて、それを受け取った後輩がわたしに見せてくれたのである。内容はまさにつぶやきであって、全員に流すような内容ではなかった。こんなものが容易にみんなに流れてしまう時代。そもそも受け取った若者の代表が、その内容を読んで、そのまま送ってはならない、と理解しなかったことも幼いが、組合トップもそういうことを見越して回答できなかった幼さがある。コピペが容易なだけに、文に対して冷静に向き合わなくなったともいえる。したがって相手が何を意図して口にしているか、という理解力も、近ごろ低下していると思わせる場面に頻繁に出くわす。AIにとって代わられて、人間以上に情緒のある回答をしてくれる時代が、すでに到来している。人間の思考能力は、平均的には低下していくことは必至である。

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『長野県町村誌』から民俗地図を 外編その3

2025-05-14 23:15:28 | 民俗学

『長野県町村誌』から民俗地図を 外編その2より

 ようやく、等高線の図をまとめてみた。いろいろ駆使するから、きっとやり方を忘れてしまうかもしれないが、繰り返すがラインを繋げてポリライン化して、さらにポリゴンを作成するには、キャドソフトの方がやりやすい。今後は座標系のこと、そしてポリゴン化へのシフト作業のやり方を覚えておかないといけない、とは思っている。

 ここに示したのは、等高線の400m、600m、800m、そして1000m以上をポリゴン化して示したもの。前者三つの等高線は不要かもしれないが、とりあえずここでは示してみた。実際の民俗地図を作成する際には、前者を示すことはないだろう。あるいは1000mを800mラインに変えて表示する、ということもあるかもしれない。県内では400mラインは意味をもたないかもしれない。さて、ここに『長野県町村誌』と『長野県史民俗編』の調査地点を等高線とともに示してみた。まず、両者を重ねて示したもの。何度も触れているように、特に北信域の地点が密集していることがわかる。そして1000m以上を色塗りしたため、1000m以上の地点には調査地点が少ないことが解る。1000m以上に地点が落ちているのは、南佐久地域と木曽地域に特徴的なことは、視覚的にわかること。あとは諏訪地域ぐらいだろうか、1000m以上に兆地点の集落があるのは。後者の図は、前者の図から『長野県町村誌』の地点を消去したもの。若干東北信に地点が多い印象を受けるが、『長野県町村誌』ほどの偏重は見受けられない。

続く

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『長野県町村誌』から民俗地図を 外編その2

2025-05-12 23:49:16 | つぶやき

『長野県町村誌』から民俗地図を 外編より

 等高線を引くのはともかくとして、視覚的には一定の標高より「高い」、あるいは「低い」エリアを着色して表示したい。ということで、ラインをポリゴン化して図に載せたいのだが、QGISはキャドソフトではないので、簡単にはいかない。わたしもキャドソフトは仕事で利用しているので理解しているが、GISソフトには疎い。いろいろなソフトを駆使して目的のものを作って行く、ということは仕事上でも時おりある。

 ということで、埼玉大学教育学部谷謙二研究室が公開している等高線を作成するツールを利用して取得した等高線のデータをKMLファイルで保存し、QGIS上でDXFデータに変換してキャド上でポリゴン化することにした。QGIS上でズレないように、長野県の行政枠もいつも利用しているQGIS上のポリゴンをラインに変換した後に、DXFデータで保存して、等高線と整合させて作業を進めた。県枠外の等高線を消去した上で、画地化して、さらにポリゴン用に塗り図形を作成、ほぼ完成したところで、DXFデータをQGIS上に戻した。ウェブ上に公開されている「QGIS3でDXF形式のCADデータをジオリファレンスする」のYouTube動画を見ながらやってみたのだが、うまくDXFデータがQGIS上に載らない。ようはこれまではあまり意識していなかった座標系が統一されていないため整合しないと解った。そしてよく見てみると、長野県全体の枠が、いつも見ているものとちょっと違う。「なぜ」とようやく気がついた。もともとQGISの当初のデータは会員からいただいたもの。それらのレイヤを確認すると座標系が混在している。QGIS上で表示している分にはこれまで問題はなかったが、他へ出力したりすると支障が出る。その最たるものが今回の長野県図である。

 

 

 ここにふたつ図を示した。左側はQGIS上で利用していた座標系と同じ座標系でDXF出力したもの。赤色のラインがそれである。そして黒枠はQGIS上で視覚的に見ていた長野県図。こんなにずれているのである。既に等高線をポリゴン化していたので、縦横変倍で修正しようとしたものが右の図である。しかし、赤色と黒色がぴったりとはいかない。拡大するとかなりずれている。ここまで整理してきた等高線データを再び編集するのが面倒だったため、QGIS上で地物の位置変更で変え始めたのだが、ポイントが多すぎて容易ではない。ということで、あらためて最初から試みているのが現在である。なぜこのように変形してしまうのかは、わたしの知識では不明である。

続く

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