Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

挨拶

2008-07-03 12:23:54 | ひとから学ぶ
 挨拶は上手な方ではない。だから好きな方でもない。あまり外交的でない人間とはそういうものであって、当然の礼儀だとは解っていてもなかなか声が出ないというのが実情だ。それをもって無礼なやつだとか、身勝手なやつだとは思わない。自分がそうだからということもあるのだろうが、必ずしもそれを突いて人間を評価しようとは思わない。もちろんしっかりとしてくれる人に好印象を持つのは当然だが、だからといってその場限りならともかく、長く、あるいは時々付き合いがあるとれば、それだけで付き合っていくわけにはいかない。

 道端での挨拶についてはこれまでにも何度か触れてきた。「おはようございます」とか「こんばんわ」という挨拶を発しても、なかなか返ってこないことも多い。わたしのような正確ではそんなとき、自らの声が小さくて聞こえなかったのだと思うことがよくある。いや、きっと聞こえていても聞き取り難いから返答しようとする方もぎこちなくなるなんていうことも多い。人と人との空間の間とはそんなものだと思う。顔見知りのごく親しい人や、近所の人ならともかく、どこの誰だか解らないような人と挨拶を交わすということもなかなか思うようにいかないのは当たり前だ。ただ、地方の一地域で歩いているともなれば、同じ地域の人だということは、そこそこ理解できる。そんな関係も「挨拶をした方が良いものか、悪いものか」などと惑わせることになる。強いては、物陰に隠れてしまう、という行動も生まれる。これは都会での暮らしではあまり意識しない部分なのだろうと思う。都会ではなくとも地方都市でも同じだろう。長野市に暮らした3年間、会社への道すがら、他人と挨拶を交わしたことなど一度もなかった。またそんな姿はご近所同士ならともかく、そうでないらしい関係には見られなかった。そんなものなのである。実は地方の地方においても、車で移動する人が多いから、歩いている人が限られる。したがってそんな空気を感じ取る人も少なくなったことだろう。

 毎日のように駅へ向かう道で、近所の子どもたちと会う。親同士では親しいものの、子どもたちにとっては「どこかのおじさん」という存在で、いってみれば「知らないおじさん」だ。最初はこちらから「おはよう」と挨拶し、返答は「○○○」といった具合によく聞こえなかった。しかし最近はわたしよりも先に挨拶をしてくれる。そして「今日は学校で水辺の生き物探しをするから長靴を持って行くんだ」といろいろ話しかけてくれるようになった。無言の中では生まれない関係である。しばらく歩くと、あまり人通りのない道だが高校生が近くの高校に歩いて向かっている姿に時おり出会う。駅で出会うみるからにテレビに登場しそうな柄の悪い高校生の姿が焼きついていると、挨拶など返ってくるわけがないと思いつつも、会うたびに「おはよう」と声を掛ける。最初は返事なし。しだいに「○○○」となんともいえない返事が聞こえだし、最近は少し「おはようございます」という形になってきた。当初はそんなしたくもない返事のためにそんな道を通るのは辞めるかもしれないと思っていたが、回避されることなく、時おり会う。気持ちも解るが、そんなやり取りを楽しんでいる。嫌味な大人かもしれないが、ちょっとしたそんな意識ができることが、わたしは幸運だと思うことにしている。

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