Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

“命懸け”

2016-06-20 23:52:32 | つぶやき

 先ごろ「命懸けの水」を記した。いくら急峻とはいえ、「命懸け」などという表現はただならぬ。とはいえ、現場に出るのが当たり前のわたしの日常の中で、これまで「命懸け」などという表現をするほどのことはなかったと言える。土木の現場ではその言葉に値するような環境は珍しくない。したがってそうした危険から回避するための安全管理を行うのは、今では当たり前のこと。そしてそうした対応が当たり前となると、作業員は「命懸け」と思えるような作業には手を出さなくなる。当たり前のことなのだが、いっぽう我社の現場をあらためて考えてみると、「命懸け」とまではいかなくとも、安全面では危険な場面は多々ある。

 もう5年ほど前になるが、ある山間の隧道に案内されて調査をしたことがあった。隧道の大きさは腰を屈めて入る程度の小さなもの。かつての水路用の隧道には、この程度の大きさのものが多かった。案内された隧道は崩落寸前だということで、地元の方たちも入ったことがないという。とはいえ実際にどういう状況なのかは実際に見てみないと解らない。ということでその後その隧道には何度かもぐったのだが、崩落寸前と言われる所以は、隧道内で支えていた柱が屈折して隧道内を閉ざしていたからだ。その隙間から向こう側にくぐり抜けたのだが、屈折して隧道内を閉ざしていた柱にわたしの身体があたって何らかの力が加われば、もしかしたら生き埋めになってしまったかもしれない。そう思いながら何度となくその隙間を通り抜けたのだが、あらためて思い出せば人によっては「命懸け」の行動だったかもしれない。そう思うのは、その後いくつかの隧道に入ったが、今どきは地元の人でも「入ったことがない」という隧道が、実は多いことを知った。前述の隧道も、わたしが入る以前に役所の方たちの間で「危険だから直さなくてはいけない」と共通認識を持っていたというが、実際に隧道内を見ての議論ではなかったという。

 その後に入ったいくつかの隧道に、前述の隧道のような「命懸け」ほどのものはなかったが、それでも地元の方たちから「入ったことがある」という言葉を聞くことはなかった。裏を返せば、危うい隧道が本当はあちこちにあるということなのかもしれない。そして、今年は同じように「命懸け」に値する隧道にチャレンジする予定がある。けしてわたしはそう思っていないのだが、その地元では「○○が命懸けで入った」と噂が流れている。


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