Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

旧倉渕村の道祖神より

2018-04-09 23:03:21 | 民俗学

 「遙北通信」(遙北石造文化同好会)を紐解いてみると、平成4年には次のような報告をしている。

群馬県群馬郡倉渕村の道祖神 (『遙北通信』117号 平成4年2月1日発行) HP管理者

 長野県とともに道祖神の多い県といわれる群馬県。長野県と群馬県を結ぶ街道沿に道祖神が多いことや、高遠石工による旅稼ぎの作品がみられるなど、長野県とのかかわりは強いといわれる。特に群馬と長野を結ぶ街道は、利根川の支流であるいくつかの川をさかのぼり通じていた。大塚省吾氏は長野へ通じる五つの川沿を中心に、群馬県の道祖神を七つの系統分けをしている(註1)。それによると、


 一、神流(かんな)川系(十国街道)
 二、鏑川系(姫街道)
 三、碓氷川系(中山道)
 四、烏川系(信州街道)
 五、吾妻川系(信州、草津街道)
 六、利根上流系
 七、平野部系(平野部は神流川系と鏑川系の合する藤岡市、碓氷川系、烏川系の合する高崎市、吾妻川系と利根上流系が合する渋川市以東の県域全般を平野部系としたものである。)


と分類している。また、山田宗睦氏は伊藤堅吉氏が赤城系と榛名系の二系に分けた説をほぼみとめたうえで、赤城・榛名両山南麓の平野部系と、倉渕村をふくめた吾妻川系、および利根川本流系に修正して述べている(註2)。山田宗睦氏の三系を細分化したものが大塚省吾氏の説といえる。
 この大塚氏の七系の中で、倉渕村の道祖神は烏川系とされている。この地域には古碑を多く有しており、倉渕村権田の寛永2年(1625)の合掌双体像は、群馬県最古である。合掌系が多いことからも江戸初期のものを有している地域といえる。
 群馬県の道祖神を全て調査した『道祖神と道しるべ-上州の近世石造物(一)』(註3)によると、県内総数3536基であり、内双体像は1880基である。特に多く双体像を分布するのは群馬郡の265基、吾妻郡の366基である。
 また同書によると造像の年代的変遷を4期に分類している。

 第1期、元禄まで(仏像の形を模倣した道祖神を試みた時代であり、合掌するとか正座するといった像が造られた成立期である。)
 第2期、享保期(二神直立型で互いに手を前に組んだり肩にかけていても静かな信仰の形であり、固定期。)
 第3期、宝麿期(道祖神全盛期であり、自然石に丸やハート型にくり込んで二神を刻んだり、石殿のような屋根をつくるものなどが出て、男女抱擁型までできた。)
 第4期、明治まで(文化15年から明治期に及ぶ時代で双体道祖神の衰退期であり、文字碑が多く出現している。道祖神は特に復古神道の影響で天孫降臨型が出現している。)

 年代別道祖神塔道立状況によると、総数3536基中紀年銘を有するものは、1949基ある。これらを分類すると、1620年から1640年までが1基、1660までは0基、1680年までが7基、1700年までが11基、1720年までが30基、1740年までが132基、1760年までが335基、1780年までが455基、1800年までが341基、1820年までが257基、1840年までが137基、1860年までが149基、1860年以降が94基となっている(註4)。これによると1740年から1800年ごろまでが最盛期といえる。双体道祖神の多いのは1740年から1780年までの519基である。長野県に比較すると全体的に古い年代に最盛期があるといえよう。
 次に倉渕村の状況をみてみる。総数は110基、内双体像が95基、二神別基並立2基を数える。二神別基並立のものは県内に3基を数え、そのうちの2基を倉渕村で有している。小板橋良平氏は『倉渕村の道祖神』(註5)の中でこのタイプの道祖神を3基としている。『道祖神と道しるべ』の中で道祖神として扱っているものは元三沢のものと後通田のもので、小板橋氏のいう三沢のものは道祖神としていない。遙北通信第99号で「サエノカミと奪衣婆」と題して述べたように、この像については「おばごさま、おじごさま」と地元で称しており、本来は道祖神ではなかったものと思われる。小板橋氏は三沢と後通田の2基については奪衣婆系の道祖神として扱っているが像容から奪衣婆とはっきりわかるものは三沢のものであり、後通田のものは元三沢のものと同系と思われる。

 

  

 (平成2年4月20日撮影)


 写真に示す岩氷下道のものは女神がお高祖頭巾を被っているものである。群馬県内に数は多くないが、このタイプのものがみられ、特徴といえる。
 道祖神の祭りについて小板橋氏がかつて行なわれていたであろうものを載せている。それによると、小正月の14日、その年嫁に来た家へトムコ(友婚)がヌリデの木で男根2本をつくり押し掛けて祝う水祝という習俗があり、長井でゴモットモサマ、権田でオヤオヤ、赤竹・矢陸でキンマラサマといい、各地区によって行事が少し異なっているという。明らかに嫁祝いの習俗であり、山梨県や長野県なども含め周辺地域に祭りの類似性が見られる。


 註1.『日本の石仏』第二号「群馬県における双体道祖神の様式と伝播について」
   2.『道の神』淡交社 S47 P163
   3.群馬県教育委員会 S61 P50・51
   4.前掲註3. P61
   5.倉渕村教育委員会 S58

 

 倉渕村は、平成の合併によって、現在は高崎市の一部となっている。文中にもあるように、これ以前に「遙北通信」99号において「サエノカミと奪衣婆」について報告しており、その内容は下記のようなものだった。


サエノカミと奪衣婆 (『遙北通信』99号 平成2年6月15日発行) HP管理者

 群馬県の倉渕村三沢から元三沢への入口に双体道祖神とともに、奪衣婆と懸衣翁(けんえおう)らしき像がセットで並んでいる。地元ではこれを「おばごさま おじごさま」と呼んでおり、子供の咳の神として祀っている。倉渕村教育委員会発行の『倉渕村の道祖神』において、この像を奪衣婆系の道祖神として、中部地方から関東にかけて風邪の神、オシャブキさま(しわぶき神)と称している道祖神の系統であると述べている(安中市在住元倉渕村文化財調査委員・小板橋良平氏)。私が地元で聞いたところでは特に道祖神としての信仰はないとのことで、隣に双体道祖神があるように道祖神としての位置付は、こちらが本家のようであった。地元の人の話では、歯痛のとき、ここにきて眼かけをするともいう。
 ところで、子供の咳の病に眼かけをし治してくれる神様に姥神様がある。柳田国男は東京に珍しい伝説があり、江戸といわれたころには方々に子供たちの咳を治してくれるお婆さんの石像があったとしている。また、柳田は「昔の関の姥神は多分は連れ合いの爺神と共に、ここで祀られた石の神であったらうと私などは考へています」と述べている。三途河の関所を守る男女二神に爺婆がおり、関の姥神が習合し、今の奪衣婆の姿があるという(『日本の石仏』24号「塞せぎの民俗と石神・石仏」胡桃沢友男)。奪衣婆がサエノカミとしての、境の神の役割をしている論考も数多くあり、事実この三沢の「おばごさま おじごさま」は、十王の付属ではなく単独で道立されており、「おばごさま おじごさま」という呼称からいっても2人は夫婦であり、道祖神に共通した点が見られるわけである。道祖神がサエノカミの代名詞のように語られる点からいっても奪衣婆と懸衣翁の二人がサエノカミと深く結び付いていることを知らされる。私は未見であるが、三沢の西北にある後通田(ごつうだ)にも同様の丸彫単立像があるといい、もう少しこの像の信仰面を聞きだしてきたかったところである。
 他の地域に「おじごさま おばごさま」と呼ばれる像があったら紹介していただきたい。

これは元三沢のもの。背後に木造の男根が見られる。また、藁ぞうりが供えられているから、足の神、あるいは旅の神という考えもあるのだろうか。 (平成2年4月20日撮影)

 

 繰り返すが、現在『長野県道祖神碑一覧』なるものを準備している。前段の文中に「長野県に比較すると全体的に古い年代に最盛期があるといえよう」とある。根拠が示されていないが、わたしが統計をもって述べたものではなく、既存の書よりの引用で記したと記憶する。一覧化されあとから、このあたりを検証してみたい。

 ところで倉渕村といえばその代表的道祖神が下の写真のもの。前傾の『倉渕村の道祖神』の表紙を飾ったのは冒頭の岩氷下道の下諏訪神社のお高祖頭巾を被った双体像であったが、よく知られていると言うとこちらの道祖神である。この像形では表紙にはできなかった、ということかもしれない。

三ノ倉落合下産泰宮「宝暦十辰天 極月吉日 中原村中」(1760年

 (平成2年4月20日撮影)

 


コメント    この記事についてブログを書く
« すでにイワツツジ開花 | トップ | 埋まっていた「庚申」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事